本日の私は、華麗な印象を持つ真紅の薔薇であるものの、どことなく威厳を感じる、熱情と名付けられた品種が開花したような心境です。

 

 

 孤立しているわけでもなく、他者を拒んでいるわけでもないのに、どこか一本芯が通っているかのような咲き姿が魅力的です。

 

 

 

 眩しいほどの陽射しの中で、新緑を背景に毅然として咲く様子からは頼もしさを感じます。

 

 

 

 何輪もの花が、それぞれ競い合う事なく、群れの中に生息しながらも誇らしげに咲き乱れているからは、初夏の青空も相まって清々しさを感じます。

 

 

 近年、本来各自の個性と捉えるべき事が数値化され、序列化される傾向にあります。

 「序列化される」と、敢えて受動態で記載しているのは、序列化する者は少数の大人とその影響を受けた子ども達だけで、大抵の人は積極的にはその序列に即して物事を判断する事はあまり見受けられないからです。

 

 身長や体重など、医学的見地から正常の範囲内の測定値であっても、思春期に突入すると、あらゆる媒体を通して痩せている事が優れている事だと云う価値観を雑誌やweb上で刷り込まれる人が多く、正常の範囲内の数値であれば本来個性として捉えられるべき点を、BMIや体重の数値が小さい方が優れていると信じ込む者が多いのがこの典型例です。

 このため、健康体であるにもかかわらず、本人の周りが勝手に定めた暗黙の序列の方の数値である者が、20歳になってローンを組めるようになると高額なダイエット食品を定期購入する契約をしてしまい、健康を損ねただけでなく約50万円を無駄にしてしまったと云う悲惨な話を私は約15~20年前に多く耳にしてきました。

 

 レクレーションとして友人と親睦を深めるためのカラオケについても、採点機能が精密化され、本来仲間内で盛り上がって楽しむはずの場が、その時のメンバーによっては、得点を競うゲームになる事も有りました。

 90年代後半、安室奈美恵や華原朋美の楽曲が人気を誇り、一部では高音がどれほど出るかを競う人たちも多数見受けられました。

 

 私が青春時代を過ごした時のカラオケの在り方として、歌唱力の有る人は、1人でMISIAや宇多田ヒカルなどの楽曲を1曲丸々歌う場合もありましたが、SPEEDやモーニング娘。などのグループが1曲の中でメンバー毎にパート分けしている楽曲が流行していた時代背景もあり、数人でパート分けしてマイクを回して1曲歌う楽しみ方が普及してきました。

 1曲丸々知らない人や、歌唱力に全く自信が無い人でも、知っているサビの部分だけを少し歌うことや、台詞や合いの手を担当するにより参加できる方法です。

 

 一度一緒にカラオケに行った知人が、

 

 「私は今までずっと、歌を歌うということは、音楽の授業で高評価を獲るためか、カラオケで一緒に行った人たちの中で一番上手いんだと自分の歌唱力を誇示するものだと思ってた。

  カラオケは、自分の歌の上手さを見せつけてグループの中で競うものだとしか思えなかった。

  でも、このグループで歌ってみて、初めてハモリの楽しさが解った。カラオケは競争ではないんだね。」

 

 と、まるで世紀の大発見をしたかの如く話していたのです。

 

 特に歌手になるわけでもなく、仲良くなった人たちが集まって遊びとして普及しているカラオケが、競争として捉えられていた事もあるのだと知った印象深い出来事です。

 

 

 何らかのビジネスが関与している大人を除き、序列化する者は、物事に取り組む際、他人との競争に勝つ事が楽しみなのか、手段は何でも構わないから他人より優れている自分を確認したいのか、心の底から楽しいと思える物事が無いのか、私は非常に不思議に思っています。

 

 

 【本日のピアノへの取り組みについて】

 

 ・バッハ インヴェンション全15曲

 ・バッハ シンフォニア第11番 ト短調

 ・ダカン かっこう ホ短調

 (ここまで各1~2回ずつ通しただけ)

 

 ・ショパン エチュードOp.10-12(革命) ハ短調

 ・ショパン エチュードOp.10-4 嬰ハ短調

 ・ショパン スケルツォ第1番 ロ短調

 ・その他(スケール・アルペジオ・半音階)

 

 ダカン「かっこう」が懐かしくなり、久々に練習曲の中に入れました。

 爽やかで、軽やかで、私のお気に入りの曲調です。

 クラシックピアノの発表会の定番曲なので子どもの頃に習った人も多いと思いますが、再開後にショパン以外の楽曲で懐かしくなって練習し直した楽曲が、この「かっこう」ギロック「手品師」です。

 

 ギロック「手品師」は、小学校1年生の頃の発表会の演奏曲として先生から与えられた楽曲で、ピアノ再開数日後に暗譜で弾けたお気に入りの1曲です。

 テンポが良く踊り出しそうな曲調が当時の私の内面に非常に適合しており、大人になってピアノを再開した直後、当時のピアノの先生が私にこの曲を選んでくださったことが非常に嬉しく感じていました。

 当時のピアノの先生とはあまり日常生活について雑談した記憶が無いのですが、先生は小学校に入学する前の私の内面をよく解っていらっしゃったのかもしれません。

 

 私がピアノの練習を嫌がらずに自分から進んでツェルニーなども含め取り組んでいたのは、毎回の発表会の選曲が私の心境に適合するものが多かった事に加え、親が私の練習中に「下手」などとネガティブな事を言わず、教本の進みについても近隣に住む他の同年代の子どもと比べられる事が無かったからなのではないかと考えています。

 

 私は、情操教育の一環としてピアノを習っていたので、親からは特に高い完成度を求められる事がなく、教本の進みを急かされる事も全く無く、気楽に練習に取り組められたのは非常に有難いことでした。

 これが、もしコンクールに出場する為に点を獲るようけしかけられていたら、家での練習を拒んでいたかもしれませんし、嫌々やらされていた場合には大人になってピアノを再開する事など考えていなかったかもしれません。

 

 私が子どもの頃には、ピアノのコンクールに出場するのは専門の道を視野に入れている人が大半で、首都圏の私立音大のピアノ専攻学科に現役で合格した人の中にも小学生の頃は参考程度にコンクール会場に鑑賞に行くだけで初めて実際に出場したのが中学生になってからと云う人もいました。

 

 専門の道に進むからには、音大入試や卒業後の演奏活動を見据えて人前で演奏する場数を踏む必要が有ると思いますし、義務教育の年齢の頃から同世代と競う事を余儀なくされるのでしょうが、趣味で楽曲を奏でる習い事に於いては、基本を逸脱しない限り順位を付けられる事もなく、同学年の人と完成度を比較される事も無かったのが私の子ども時代のピアノ教室でした。

 

 発表会の時、私と同い年の生徒が、緩徐な曲をしっとりと小学校5年生だとは思えない感覚で奏でていたのが非常に印象的で、未だにその時の光景が甦ります。

 ショパンの「プレリュードOp.28-15 雨だれ」を演奏した少女ですが、鑑賞中、私とは全くタイプが違う人だと認識したと同時に、特に卑屈になったわけでもなく、優越感を抱いたわけでもなく、中学生になってからも彼女の演奏を非常に楽しみにしていた事を思い出します。

 特に専門の道を視野に入れていたわけではなかった(遠くの「大先生」を紹介してもらっていたわけではなく、私と同じ先生に習い続けていた)彼女ですが、趣味の習い事の発表会の演奏を楽しみにしていた同い年の生徒(プログラムには全員「門下生」と記載されていますが、敢えて「生徒」と記します)がいた事は非常に幸運だった事だと今改めて思います。

 

 

 スケルツォ第1番 練習記録】

 

 まず、私はこの楽曲を練習するにあたり、部分練習用の大まかなパート分けを行い、

 第Ⅰパート:第1小節~第68小節

 第Ⅱパート:第69小節~第109小節

 第Ⅲパート:第305小節~第388小節(ロ長調の中間部)

 第Ⅳパート:第569~第624小節(ロ短調のコーダ)

 と部分的にインテンポでメカニック的スキルに問題を感じない時点に到達した後、全体を通して考え直すつもりでいます。

 

 ◆第69小節~第109小節の練習について

  

 

 昨日、3拍子の拍感を取りにくいとの旨、記しましたが、まずは第69小節から第76小節までをインテンポで違和感なく弾けるよう対策を取ったところ、ピンク色で囲んだ音に重きを置き、黄色で記した音の流れを作る事を意識すると、3拍子の拍感を保ったまま流れるような音楽として続く事が判りました。

 第77小節以降の音の流れについてまでは本日は考える事が出来なかったのですが、エチュードOp.10-4を練習している時にはあの臨時記号が多い音符を読む事とインテンポで打鍵(鍵盤をなぞる行為を指す)する事だけで精一杯だったのが、あれから3年近く経った今では流れに気を配る事ができるようになったのだと成長を感じます。

 

 全体的に、手を広げる必要が有る楽曲なので、メカニック的スキル克服に於いてはこの手の広がりについて難儀しそうです。

 

 長くなりましたが、ここまでお読みいただきありがとうございました。

 明日からも少しずつ練習を進めていきたいと思います。