昨日掲載しきれなかった薔薇園の薔薇の花の写真を少し掲載しておきます。

 暖かいと云うよりも寧ろ、暑いと表現した方が相応しい天候の中、やや控えめに咲く薔薇の花です。

 

 

 イギリスを作出国として、シャリファ アスマと名付けられた品種です。

 定番の鋭く尖った赤い薔薇とは印象が全く異なりますが、淡い桃色がエレガントな印象を与え、赤や黄色の原色が強い品種の薔薇の花に囲まれていると楚々として目に映るほどです。

 

 「イングリッシュ・ローズガーデン」と題される場所や、薔薇の花をモチーフとしたデザインは、多くの人の関心を集め、広く愛されていますが、このシャリファ アスマのような華やかさを損なわない程度に控え目な存在が最も人気が高い気がします。

 

 

 写真ではお伝えする事ができず残念ですが、一輪一輪が金木犀にも負けず劣らず強い香りを放っているので、目を閉じても存在を間近に感じるほどでした。

 

 この薔薇園の全体像の中に淡い桃色の花びらが存在するだけで、それ自体の存在よりも、他の色調の品種を引き立てている気がしてなりません。

 

 

 様々な品種が咲き乱れる薔薇園を散策していて感じた事は、世の中の需要に応えて作出された品種よりも、自分だけのオリジナル作品を普及させる事が目的で作出された品種の方が遥かに多いのではないかと云う事です。

 人間が権力を持つと、後世にまで自らの創作物を遺したいと云う欲求を持つのが世代や国境を越えた共通点なのかもしれません。

 

 この日は休日で、親子連れも見られたのですが、小学生と思しき子どもが、

 何のために何種類も似たような形の薔薇を作ってるの?」

 と、母親に問いかけている光景が見られ、好奇心耽美主義支配欲自己顕示とが入り混じった人間関係が見え隠れするような全体像を漠然として捉えているかのような質問に非常に興味を惹かれました。

 

 

 私の幼少期、まだ青い薔薇がどこにも存在せず、図鑑に「今、青い薔薇を作る開発を進めていますので、近い将来は青い薔薇を見られる時が来るでしょう」との旨、記載されていたのを思い出したのですが、当時その記載を読んだ時の私自身の心境は、まだ存在しない物をこの目で実際に見てみたいと云う純粋な好奇心に溢れていました。

 同時に、どのようにして青い薔薇を開発するのか、青い薔薇の開発に成功すれば緑色や透明も開発できるのか青い薔薇を開発したにはこの開発チームはを開発する気でいるのか、そのような疑問を抱きつつも、周囲の大人には口外せず、ただ疑問を胸に秘めてすまし顔で日々の生活を送っていました。

 そして、誰にも口外しなかったのですが、青い薔薇の開発に成功した後、際限なく世間の要求が進み、開発チームも次から次へと他の何かを開発し続ける気がしたので、どこかで歯止めをかけた方が良いのではないかと考える事すらあったのです。

 

 このような感情を抱いても、先生は勿論、親にすら決して他言しませんでした。

 野心がない、向上心がない、進取的ではない、などと批判され説教される事すらあれど、何故そう感じるのか、理由を問われる事は決してないだろう、そう子どもながらに勘付いていたからです。

 幼少期から、他者への説明が長くなりそうな事柄に関しては、予め説明不要になるよう話題に出す事すら避けていました。

 

 

 【本日のピアノへの取り組みについて】

 

 ・バッハ インヴェンション全15曲

 ・バッハ シンフォニア第11番 ト短調

 (ここまで各1~2回ずつ通しただけ)

 

 ・ショパン ノクターン第5番 Op.15-2 嬰ヘ長調

 ・ショパン エチュードOp.10-12(革命) ハ短調

 ・ショパン エチュードOp.10-4 嬰ハ短調

 ・ドビュッシー アラベスク第1番 ホ長調

 ・その他(スケール・アルペジオ・半音階)

 

 昨日記した、バッハ インヴェンションの右手と左手とで協力し合って一つの音形を作り出そうとしているかのような誤りについては本日は跡形もなく消え去っていました。

 まだドビュッシー アラベスク第1番の音形に慣れないのか、ところどころ迷いを感じられる気がします。

 

 以前、大人のピアノ再開者の方が、ピアノに向いているのは試験勉強を一夜漬けするタイプではなく、毎日コツコツ勉強するタイプだと云う見解の事を記載していらっしゃいましたが、私はどちらでもありませんでした。

 そもそも試験のために勉強などしませんでした。

 

 コンクールに関心を持つ人と、全く関心を持たない人、それがこの違いとして大人になっても顕著に表れている気がします。

 

 

 今の私のピアノへの取り組み方も幼少期の青い薔薇への想いと同様で、まだできたことがないことができるのを、この自分の知覚で実際に体感してみたいと云う純粋な好奇心に因るものなのかもしれません。

 そして、そこに他者の入り込む隙は有りません。 

 好奇心とは、他者へ顕示したり、他者から承認を得たりするものではなく、自分で感じ取るものなのです。

 更に言えば、自分自身に湧き起こる好奇心によりビジネス上の関係を除いた他者を巻き込むのは、私の美学に反するのです。

 

 最後に、好奇心とは、意識して湧き起こすことのできる感情ではなく、本能レベルで感じ取るものです。

 それゆえ、趣味そのものに対して頑張るという表現を用いる事自体、認識として誤りです。

 私は、頑張らなければならないものを趣味とは認識していません。