冬の澄んだ清々しい青空とトナカイとが意外に調和を図る事ができている風景にいたく感銘を受けました。
トナカイが場違いなところに迷い込んできた感覚は露ほどもなく、自ら正体を現しにきたような印象を受けるのです。
ホームではなく、アウェイな場所であるにもかかわらず、周囲に違和感を抱かせない構図は、あたかもサッカーW杯の選手たちがカタールで活躍する事に違和感を抱くことがなかった感覚に近いです。
完全なる素人見解ですが、以前、南アフリカで開催された時には、アウェイな感覚が否めませんでした。
私は、2002年の日韓W杯の頃から、W杯が開催される度にTVで観戦するのが好きだったのですが、これまで概要を見てきた所感として、岡田ジャパン(2010年 南アフリカ開催)と森保ジャパン(2022年 カタール開催)との方針の違いが如実に表れているのではないかと云う事が挙げられます。
奇しくも、両者ともにPK戦へともつれ込んだ結果の惜敗となりました。
南アフリカで開催された時には、パラグアイ戦の決勝T1回戦のPKキッカーとしてゴールを外した駒野友一選手への批判が相次ぎ、帰国後のTV番組に於いても本件についての騒動が報道されていたのは記憶に新しいです。
今回は前回とは打って変わって、一人の選手が批判の標的とならないよう周囲の心遣いが各界に於いて見られると私は実感しています。
監督とは、指揮を執る役目が与えられ、選手たちの持ち味を最大限生かすためには個々の特性を知り尽くしておかねばならないと思います。
以前、体育の授業でバレーボールやバスケットボールの球技の試合をおこなった時、
「ミスをした人を責めるのではなく、どうしたらミスをなくせるか教え合い、そして、試合の中でパスが回ってこない人が絶対に出ないよう、各チームで全員参加できるようにするにはどうしたらよいか話し合うこと」
と体育教師からクラス全員で指導を受けた事が有りました。
集団球技では必ず個々のポジションがあり、役割分担をして、一つの或る目標を達成すると云う、組織で行う仕事に於ける人間関係の考え方と酷似していると今更ながらに痛感します。
ピアノを練習する場合、各指や足が役割分担をして、指揮を執るのも自分一人なので、自分の行為がそのまま成果となる事が魅力の一つだと私は感じています。
【本日のピアノの練習について】
・バッハ インベンション第1~15番
・バッハ シンフォニア第11番 ト短調(暗譜済)
(※ここまでそれぞれ1~2回通しただけ)
・シューマン 飛翔(※練習中)
・ショパン エチュード Op.10-4(暗譜済)
・ショパン エチュード Op.10-12(革命)(暗譜済)
・ショパン ノクターン第5番 Op.15-2 嬰ヘ長調(暗譜済)
・その他(スケール、アルペジオ、半音階、その他)
本日は、シューマンの幻想小曲集Op.12「飛翔」について、8分の6拍子への意識を優先して練習する方法について考えました。
オレンジ色の蛍光マーカーを引いた部分だけを主旋律として、その他の音符を全て無視し、メトロノーム四分音符=120に合わせ、「1と2と3と、1と2と3と、…」とカウントしながら、拍感を身体に叩き込ませたつもりでしたが、この方法では身につく方法が「3拍子」であり、8分の6拍子の意識を持つ事が困難だと実感しました。
練習中、私のカウントの仕方が「3拍子」である事に気付いたのは転調して右手アルペジオの連続になるパートに入ってからの事です。
試行錯誤しながらの実践こそが、私の楽しみで、苦痛を感じずに上達できる方法なのではないかと思います。
慣れてくると、バス+主旋律を同時に弾きながら拍を刻めるのですが、8分の6拍子の意識を持つには、「3+3」の概念を払拭せねばならず、3+3の概念を体得する事が必須だと判りました。
この「3+3の概念を体得する方法」について、次回以降探っていきたいと思います。
練習方法を自分で試行錯誤できるのは、期限や完成度に関するノルマのない趣味の特権であり、対象となるものを研究しているような錯覚に襲われるのが快感です。
もしかしたら、先生が私にショパン ノクターン第5番 Op.15-2を1曲通して弾かせる事をなさらなかったのは、まだ私の中に潜んでいる研究者気質の部分が先生に伝わっていたからなのかもしれません。
実際、理不尽だと感じる事があれど、先生や教室関係者に対する嫌悪感を募らせただけで、ピアノに対する厭な想いは全く湧き起こることがなく、ピアノの練習についても何の疑問も抱かず普段通り続けています。
先生や教室関係者への非の有無を追及する以前の問題として、私自身の趣味への取り組み方には、「他人に教えを乞う」事により上達することに歓びを見出すのではなく、自分なりの練習方法を納得いくまで試行錯誤しながら無期限で追究し続ける事それ自体に快楽を覚える嗜好性が有り、先生が具体的に練習方法を指導してしまっては、私の快楽を奪ってしまう事になり、私の趣味を趣味として成立する事が不可能になってしまうと悟られてしまっていたのかもしれません。
本題の「拍感への意識」についてですが、ショパン ノクターン第5番 Op.15-2の練習時には、主旋律を担うのは全て右手であり、左手は伴奏を担う役割を果たしていたので、最初に左手の担う主な音(内声含む)をメトロノームと云う指揮に合わせ、左手の伴奏に右手を乗せる形で拍感への意識の高まりを感じました。
しかし、シューマンの幻想小曲集Op.12「飛翔」については、左手が主旋律を担う場合も有り、指揮を執る役目が左右で入れ替わるので、片手ずつの練習が拍感への意識を高めると云う観点では通用せず、パートにもよりますが、メトロノームに主旋律を合わせる方法を採択する事にしました。
ショパン ノクターン第5番 Op.15-2の中にも、下記添付画像の第56,57小節の部分など、私は左右分担を独自に編み出し、赤枠で囲んだ箇所は全て右手、それ以外の音は左手(一部高速アルペジオにより左右受け渡し箇所有)が担当していた小節は多々有ります。
しかし、ノクターンには、主旋律を左手が担う事は1曲を通して全く存在しないため、今回のシューマンの幻想小曲集Op.12「飛翔」の練習法こそが私の拍感への意識を高め、体得する方法を編み出す非常に良い機会だと考えています。