就活に於けるwebテスト代行を請け負った京大院卒の関西電力社員が、私電磁的記録不正作出・同供用の容疑で逮捕された件について、頻繁に報道を見聞きするようになりました。
報道を全て鵜呑みにするのは早計ですが、この容疑者の供述によると、犯行動機のうちの一つとして、就活生から感謝の気持ちを述べて貰う事に喜びを感じたとの旨が記載されたニュース記事が散見されます。
この容疑者は、2020年から続いていた外出自粛生活の前から代行業(不法行為)を常習的に行っていたとの事でしたが、勤務先や日常生活で接する人達から感謝の気持ちを直接伝えられた事がほとんどなかったのでしょうか。
一般的に、大学院の研究室生活に於いては、ボス他、指導教官から「ありがとう」と声をかけられる事はまず有りません。
「出来て当たり前」
「やって当たり前」
このような概念がまかり通っており、勤務先会社に於いても、業務について社内外の人達から「ありがとう」と言われた事や、感動された事がほとんど無かったのかもしれません。
更に言うと、この容疑者は、単独犯として独立する前の4人グループで代行業(不法行為)を営んでいた時から、代行仲間たちからさえも感謝されていなかったのかもしれません。
報酬として金銭を得ていたようですが、仲間から本心からの感謝の言葉をかけて貰った事は一度も無かったのではないかと私は推測しています。
組織とは、人の言動によって形成されています。
不要な人であれば退職勧奨や退学勧奨を受けるはずで、在籍が許可されている事自体、少なくともその組織にとって甚大な被害のみを与えている人物ではない事は自明です。
私自身、自宅に配達に来る運送会社の従業員にも、「この寒い中ありがとうございました」と感謝の気持ちを述べています。
ワクチン接種の際に注射を行う看護師に対しても同様です。
勿論、痴漢などの不法行為を行う人物に対しては例外として冷酷に対処する必要が有りますが、普段からたとえ自分がお金を払って何かサービスを受ける立場にいたとしても、自分にとって役に立った行為に対しては、「ありがとう」と述べる習慣をつける事により、何か人知れず悩みや不満を抱えている人の心の支えになる場合が有ると思います。
厳しく叱責をすると、それが引き金となり、たとえその叱責を引き起こした人物に非が有ったとしても、叱責の内容が客観的に見て正しいとしても、報復として殺人事件を起こす若者が散見されます。
もはや、部下は業務を遂行して当たり前、学生は学問に取り組んで当たり前、院生は研究論文を執筆して当たり前、仕事は自分で選んだのだから他人からぞんざいに扱われても当たり前、このような概念は時代遅れなのかもしれません。
褒められた経験よりも貶された経験の方が多い場合、下の世代に対して心から「ありがとう」と述べる事は至難の業でしょう。
今回の事件は、戦前から脈々と続いた恫喝・理不尽な説教・嫌味が引き継がれていた事も要因の一つだと私は捉えています。
そもそも、何か叱責された者に反発心を抱かせてしまう叱責の仕方や伝え方にも問題が有るのではないかと私は考える事が多いです。
真の要望を言い出しづらい雰囲気を作って場を支配したり、参加拒否している人に飲み会などのレクレーションに強引に誘ったりして、お断りすると「協調性が無い」などと説教をする人物を「積極性が有って好ましい」と評価し続けてきた社会にも責任が有ります。
自分の時代は不遇だ、不公平な扱いを受けた、自分の申告が信じて貰えなかった、このような不満を抱かせる事により、巡り巡ってその不満が増幅して社会全体に返ってくるのではないでしょうか。
何かして貰った時、心から感謝する事ができない感性と価値観の持ち主が多いとしたら、それは上の世代の責任でもあります。
自衛のためにも、社会の中で反逆者を産み出さないためにも、普段からたとえ自分がお金を払って何かサービスを受ける立場にいたとしても、自分にとって役に立った行為に対しては、「ありがとう」と述べる習慣をつけると良いと思います。