振り返れば、子どもの頃から今に至るまで、どの先生に替わっても、ピアノの先生の前ではプライベートな雑談どころか笑ったことすらありませんでした

 ピアノの先生に限らず、学校の先生の前でも嘲笑以外の意味合いで笑った記憶が全くありません。

 人前で笑顔を見せるのは真摯に物事に取り組んでいないと見做されていた子ども時代を過ごしたので、真剣に考えている振りをする顔芸だけはハリウッド女優並みになりました。

 

 

 ピアノの件に付いてですが、先生について習っているにもかかわらず、演奏に対して、誹謗中傷すらしていただけず、勿論褒めて頂いた事も一度も有りません。

 アメブロの大人のピアノ学習者の方々が、先生からの感想をもらえているのが想像できない程です。

 

 ピアノの先生ってレッスン中に生徒が演奏してもノーコメントか、先生の前でも何も演奏させないのが普通だと刷り込まれているのは私だけなのか…。

 

 ピアノの練習は孤独だとよく記載されているのを見かけますが、私の場合、先生がいてもいなくても何もコメントを貰えないので、自宅でも全く孤独を感じる事がないのだと思います。

 練習が孤独だと感じる方々は、先生の前で演奏したらどのような反応を得られているのか、逆に興味深いです。

 

 私の場合、例えて言うならば、毎回毎回、学校の先生に作文を提出しても、読んでいないのが明らかな状態で検印だけ押されて返却されるようなものです。

 それどころか、書き終えて後は提出するだけという段階で提出を受け付けて貰えず、先生の話を一方的に聴かされて終了する状態に近いです。

 それなら自分の日記帳に書いて誰にも提出しないのと同じですよね。

 

 

 密室でマンツーマンのレッスンで無視され続けているって相当だと思うのですが…。

 

 そもそも、大人になって人から何かを教わると云う時、何か指導というものがあるのだろうか。

 私は個別指導自体全く不向きで、集団授業の"one of them"として先生から存在を認識されているのか否かすら判らない状態が理想で、更に言えば自分で本を読んで学ぶのが一番実力が付くと思うし、に何かを習うと云う事自体全く適性がないと昔から感じていました。

 振り返れば、10歳以上になって何かを人から形式的に教えて貰って「理解できた」「できるようになった」と云う記憶が全くありません。

 他人の説明を聴いて理解するのではなく、予め何かマニュアルを読んで理解している事柄について「聴いて理解した演技」を繰り返し続けた気がします。

 

 進学塾に行く人の目的は、授業ではなく情報収集友達作り家に居なくても済む大義名分作成が主であるように、他人の説明を聴いて理解する事は人間には極めて難解な事なのではないかと考えています。

 

 

 

 ピアノのような動作を伴う芸術を習う場合、フランス語やロシア語などの全く理解できない言語で習うのが効果があるのではないかと思い始めています。

 嫌味や愚痴を言われても気付かずに済みますし、言語を理解できない分、雰囲気で感じ取るものがあり、功を奏するのではないでしょうか。

 

 そもそも、余計な邪推をするのは日本語を理解出来るからで、日本語使用禁止にすれば表情も豊かになり、陰湿ないじめも不可能になるのではないかと云うのが私の持論です。

 

 ピアノの先生の前で笑ったことがない、即ち、今までピアノを習ってきて笑いが込み上げるようなやり取りが一度も無かったと云うのが事実です。

 そして、この記事を打っている今気付いたのですが、私はピアノの先生の笑顔を一度も見た事がありません

 

 今時警察官や検察官でさえも一般市民の前では業務中にこやかに挨拶をするのに、業務中人前で笑った顔を見た事が無いのは私が今まで習ったピアノ講師ぐらいなものです。