自分が考案した概念ではない何かを他者へ語り継いでいく時、どのようなスタンスをとるのが最適なのか。

 この事について、しばし考えてきました。 

 

 

 予てより抱いていた違和感についてですが、秋元康氏がプロデュースする、所謂48Gと呼ばれるアイドル名義でリリースされる楽曲の歌詞について、妙齢の女性たちが発している詞であるにもかかわらず、一人称が「僕」である事が多いです。

 この詞に対し、私と同様に違和感を抱いた人が多いのか、商法が世間に受け容れられなかったからか、AKB48のヒット曲「会いたかった」には、一人称が全く出現しないと云うのは単なる偶然とは考え難いです。

 

 一方、乃木坂46や欅坂46のヒット曲の場合、同様に一人称が「僕」である事が多いにもかかわらず、同性からの支持が厚い曲が多数有ります。

 この現象をどう捉えるか。

 

 過去にも、浜崎あゆみさんや宇多田ヒカルさんの歌唱する楽曲について、同性からの支持が厚い曲の中に、一人称が「僕」である事が珍しくなかった事が有りました。

 

 

 これは、聴いている側にとって、歌手自身が発している想いが本人の声帯を通じてそのまま伝えられているのではなく、歌手自身を、「他の何者かの想いを継承した媒介者」として捉えられているがゆえの事象ではないかと私は考えています。

 

 48Gの場合、作詞者と歌手が異なるため、これは明らかですが、公表されている作詞者と歌手が同一であるはずの浜崎あゆみさんや宇多田ヒカルさんがブレイクしていた時代から、この概念が世間に受け容れられていた、否、世間からそれを望まれていたのだと思うと非常に興味深いです。

 

 作詞の時点で既に"I"を、「私」ではなく、「不特定多数の男性」と定義付け、話者本人は「私はあくまでも代弁者に過ぎないのですが…」と云う謙虚な素振りを見せつつ、「でも、あなたは実際には知りませんよね。私は知っているのでお伝えしますが…」という優越性を前面に押し出している気がしてならないのです。

 このようなスタンスの曲が、90年代からカラオケで多く歌われてきました。

 

 

 今回は、この件についての是非について述べたいのではなく、クラシックピアノ曲を練習して、人前で演奏すると云う事は、即ち媒介者としてどう在るか、考える必要があるのではないかと云う事です。

 

 伝書鳩のようなスタンスなのか、生物濃縮の如く自分の中に貯め込んで拡散するのか、聞きかじった部分だけを断片的に抜粋して誤解を招くのか、自分を無にして何かを演じるのか。

 

 事実を過不足なく伝える事は非常に難しく、まずは対象を正確に把握する事から始めようと思いました。

 

 

 

 【本日のピアノの練習について】

 

 ・バッハ インベンション第1番 ハ長調(暗譜済)

 ・バッハ インベンション第2番 ハ短調(暗譜済)

 ・バッハ インベンション第3番 ニ長調(暗譜済)

 ・バッハ インベンション第9番 へ短調(暗譜済)

 ・バッハ インベンション第4番 ニ短調(暗譜済)

 ・バッハ インベンション第7番 ホ短調(暗譜済)

 ・バッハ インベンション第8番 ヘ長調(暗譜済)

 ・バッハ インベンション第12番 イ長調(暗譜済)

 ・バッハ インベンション第5番 変ホ長調

 ・バッハ インベンション第10番 ト長調

 ・バッハ インベンション第11番 ト短調

 ・バッハ インベンション第14番 変ロ長調

 ・バッハ インベンション第13番 イ短調(暗譜済)

 ・バッハ インベンション第15番 ロ短調

 ・バッハ シンフォニア第11番 ト短調(暗譜済)

  (※ここまでそれぞれ1~2回通しただけ)

 

 ・ショパン エチュードOp.10-4 嬰ハ短調(暗譜済)

 ・ショパン ノクターン第5番 Op.15-2 嬰ヘ長調

 ・その他(スケール、アルペジオ、半音階、その他)

 

 ショパン ノクターン第5番 Op.15-2 嬰ヘ長調中間部克服に際し、2日間にわたり内声の運指の左右分担について考えてきたのですが、一度、最初から最後まで左手のみ通してみると、一定のリズムを刻んでいるのが体感的に判ってきたので、枝葉よりもまず着目すべき点が有るのではないかと考え直しました。

 

 今、八分音符=88で何度か左手のみ1曲丸々通してみて、結局毎回毎回考える事は、上述のような「継承の仕方」「媒介者としての在り方」についてです。