暖かくなってからも尚、群れを成して咲き続けている水仙の花を見かけました。
道路沿いに咲く日本水仙の様子です。
鳥の巣の雛達が餌を求めて口を開けているような生命力を感じます。
こちらは、今年初めてお目にかかった八重咲き日本水仙。
八重咲きの部分は、副冠状が多弁化したもので、まるでフリルをあしらったかのような繊細さを感じます。
水仙に限らず、八重咲きの花々を観ていると、ピアノ曲のトリルなどの装飾音が視覚化されたかのように感じられます。
昨日、音感と語感との相関について僅かばかり言及しましたが、風景や文字などを視覚化したものが無意識のうちに聴覚と結びついて連想する事が幾つか有ります。
譜面上の音符が図形に見えるという意味ではなく、譜面を全く読めなかったと仮定して、聴覚のみで感じ取る音楽と、視覚化された風景や文字などの間に、無意識のうちに感じ取っているものが確かに有る気がしてならないのです。
例を挙げると、あらゆる曲中に出現するスケールの上行からは、アルファベットのyを視覚的に連想し、私自身のHNをLilyと命名した理由のうちの一つが、語尾の二画目が上昇気流の如く跳ね上がる事を意図したことに因るものです。
本件関連事項として、本記事入力中、ひらがなの"し"と云う文字を、"shi"とタイプする時と、"si"と入力する時とに意図的に分けているのですが、「新橋」と入力する際、"shinbashi"で、「しかし、」と入力する際、"~sikashi"というように、、"shi"は後に続く文字が表す事象を前のそれよりも強調する際に用いています。
「新橋」は、多数の路線の乗り継ぎ経由として用いられている駅名を連想する事から、最初と最後の両方とも"shi"を用いています。
このような事は、公開しなければ判らない事なのですが、入力中、入力過程の文字が頭の中で視覚化されている事が多いので、今回敢えて記しました。
以前、関西弁のリズムとアウフタクトについての記事にて、文頭強勢と方言、拍の取り方などについて述べましたが、関西弁で思考している人は、日本語を入力する際、標準語圏で育った人とは別の思考回路が出来ているのではないかと考える事が多いです。
【本日のピアノの練習について】
・バッハ インベンション第1番 ハ長調(暗譜済)
・バッハ インベンション第2番 ハ短調(暗譜済)
・バッハ インベンション第3番 ニ長調(暗譜済)
・バッハ インベンション第13番 イ短調(暗譜済)
・バッハ インベンション第9番 へ短調
・バッハ インベンション第4番 ニ短調 (暗譜済)
・バッハ インベンション第7番 ホ短調(暗譜済)
・バッハ インベンション第8番 ヘ長調(暗譜済)
・バッハ インベンション第12番 イ長調(暗譜済)
・バッハ インベンション第5番 変ホ長調
・バッハ インベンション第15番 ロ短調
・バッハ シンフォニア第11番(暗譜済)
・ショパン エチュードOp.10-4 嬰ハ短調(暗譜済)
・ショパン エチュードOp.10-12(革命) ハ短調(暗譜済)
(※ここまでそれぞれ1~2回通しただけ)
・ショパン エチュードOp.10-3(別れの曲) ホ長調
・ショパン ノクターン第5番 Op.15-2 嬰ヘ長調
・その他(スケール、アルペジオ、半音階、その他)
今回、長調の曲を積極的に練習して感じた事ですが、どこかミスタッチをすると短調の曲よりも露わになりやすい気がしてなりません。
短調の曲でどこか一箇所間違えたとしても、黒っぽい背景の中に灰色が出現したかのような感覚なのですが、長調の曲の場合、白っぽい背景に染みを落としたような、「汚れ」の感覚が拭えません。
それだけ元々の楽曲に純粋さを備えているとも言えます。
密かに1年10ヶ月前からほぼ毎日数小節ずつ練習していたエチュードOp.10-1が自然に暗譜出来ていたのですが、インテンポではまだ通して弾けそうにありません。
元々、手を広げるために選んだ鍛錬のはずが、気付いたら最後まで到達していたという未必の故意のような事象です。
今回の内容は投稿できるのかしら…。
それにしても、ノクターン第5番 Op.15-2 嬰ヘ長調は輝いて見えるわ…。