不思議な感覚です。
昔、日本史や世界史などの歴史の科目を、一通り履修し終わった後、時代別にではなく、政治や文化など、何かテーマを決めて時系列にしたがって勉強し直した人は多いと思います。
時代別に見直すのは、複数の楽器から同時に発せられる音を一時的に聴く行為、何かテーマを決めて時系列にしたがって見直すのは、同じ楽器から発せられる音を連続的に聴く行為と酷似しているような気がしてなりません。
国家試験(敢えて青文字を使わず黒文字)の問題を回別に解くか、領域別に解くか、という概念と同様です。
譜面の縦と横、この見方を変えて、別れの曲(※2日間にわたって、「変ホ長調」という表記のまま投稿していましたが、どう考えてもホ長調です。自分で打って気付かなかったのは、1日目は眠気との闘いの中投稿したのも一つの理由です)を練習し直してみました。
そもそも、縦と横、この概念を思い出したのは、数日前に別れの曲の楽譜を見た時、バッハのシンフォニアの運指を考えている錯覚に襲われたからです。
バッハのシンフォニアが私の過去の思考回路を取り戻した鍵だとも言えます。
思考とは不思議なもので、結果だけを与えられて上辺だけ取り繕った訳でなければ、何かのきっかけで過程を思い出す事が出来るものなのだと、ピアノを再開して痛感する事が多いです。
ピアノの事を思い出せば思い出す程、経歴詐称やその場凌ぎの嘘、レポート代行業などを利用している者に、将来何も残らないのではないかと憂いに沈むばかりです。
証明書などの証拠が無くとも、自分の脳を含む身体に刻まれている事が確かに有るのだと最近ひしひしと感じます。
これにより、何か経験が有る事を「無い」と偽るのも至難の業なのではないかとも思えてきます。
「嘘も100回言えば本当になる」のは、聴いた者が全員その分野の門外漢であった場合のみで、どこかで綻びが出るものなのではないか、そう思えてなりません。
「写真が無いから判りません」、「証拠を提出できないのなら事実だと認められません」、「法的根拠が…」、このような台詞に縋る者が如何に薄っぺらいのか、浅はかさが見えて、聴いている側に立つと、発言する者の事を不憫に思えてきます。
嘘を嘘で塗り固めると、大嘘が発覚した時には既に手遅れ、このような事例を歴史から学ぶ事が多いので、嘘を100回吐く前に「現実」に立ち返ってやり直した方が結果としては本人の望むものが手に入るのではないかと今では考えます。
【本日のピアノの練習について】
・バッハ インベンション第1番(暗譜済)
・バッハ インベンション第2番(暗譜済)
・バッハ インベンション第3番(暗譜済)
・バッハ インベンション第13番(暗譜済)
・バッハ インベンション第9番
・バッハ インベンション第4番 (暗譜済)
・バッハ インベンション第7番 (暗譜済)
・バッハ インベンション第8番 (暗譜済)
・バッハ インベンション第12番 (暗譜済)
・バッハ インベンション第5番
・バッハ インベンション第15番
・バッハ シンフォニア第11番(暗譜済)
・バッハ シンフォニア第8番
・ショパン エチュードOp.10-4(暗譜済)
・ショパン エチュードOp.10-12(革命)(暗譜済)
・その他(スケール、アルペジオ、半音階、その他)
子ども時代のバッハは2声のインヴェンションだけでは不十分で、1曲で構わないのでシンフォニアの運指を自分で1週間考えると将来的に良いと思います。
これを子ども時代に経験して置けば、将来、初めて見た譜面が3声でも4声でも、何をすべきかが少し見えてくるのでは…と、大人になった今、考えています。
別れの曲(ショパン エチュードOp.10-3 ホ長調)の楽譜をシンフォニアと格闘した後に見た時、「頭脳戦の曲」だと判断しました。
Op.10-4よりも骨が折れる曲だと再開直後に薄々勘付いてはいたのですが、その根本的理由を説明する事ができず、この「別れの曲」はまだ早いから後回しにしておくべきだと仕分けした真髄に漸く近付けました。
主題部を「横」に練習してみたは良いものの、他のパートと時系列を合わせた時の相対的な音の組み合わせにより、更に難解さを感じ、中間部よりも攻略が難しいのが主題部なのではないかと私は常に感じています。
最近、教育について手抜きをすると、それが10年後、20年後に反映され、人財が失われてしまうと本気で思っています。
プリザーブドフラワーとして観賞用に育てるだけでも、土壌が重要だと痛感しています。
「エチュード Op.10-3(別れの曲) 変ホ長調」
このミスを起こした理由を考えても、変イ長調と混同したのか、何かフラット3つの曲を想起したのか、自分でもまだ原因追究に至っていないのがもどかしいのですが、自分で一番驚いているのが、投稿した記事を読み返すことなく記載した内容が誤りであると気付いて今朝確認した事です。
どう間違えたのか、どう記載したのか、一字一句記憶していたため、目が覚めた時に、
「別れの曲の練習前のスケールは…変ホ長調…?最初は白鍵からのスケールでは…?」
と気付いて、先程確認したらやはり変ホ長調と記載していました。
「何故間違えたのか」はまだ自分でも解らないのですが、「どう間違えたのか」という結果に至るまでの過程だけは、記憶の中だけで判るので、非常に厄介です。
このブログ記事は、単語登録を全くせず、毎回自分で手打ち入力する事にしており、一度記載した文章については、視覚的に捉えるだけでなく、全てについて自分の手でキーボードを打った記憶が残っているので、自分の思考を辿る事ができるのです。
「何故間違えたのか」、全て自分で説明できれば、その項目についてはミスを0にする事が可能です。
自分で自分のミスに気付く思考回路を作ったきっかけも思い出す事ができたのですが、この過程をよく考えてみると、やはり別れの曲関連で、偶然にしては出来過ぎだと怖くなりました。