蕾が開いた花を見ると、秘められたものを密かに覗き見た気がする一方、口外してはならない秘密を打ち明けられ、それを厳守しつつ打ち明けた相手を生涯にわたり気遣い続けなければならないという理不尽な負荷を感じる。

 私がガーデニングを絶対にせず、他の人が丹精込めて育てた美しい花を愛でる事に決めたのは、秘密を打ち明けられる唯一の人になることなく、既に知れ渡っている嘗て秘められていたものを見た"one of them"でありたいから。

 

 

 10代後半から20代前半の時期、主に5~15歳年上の女性達から、一般的に考えて他人には言い辛いと思われる生活上の悩みをよく打ち明けられていました。

 私自身が積極的に何かの相談に乗るという形ではなく、少し打ち解けてきた時に、沼が人を飲み込むかのように巧く捉えて離さないような距離感で以て私が相手に精神的に包囲されているような形態でした。

 不思議な事に、その「他人には言い辛いと思われる生活上の悩み」の具体的内容とは、私には無縁のものでした。

 

 通常、会話の中で軽い悩み愚痴を吐き出す時、ほぼ同様の悩みを抱えている相手に対してである事が多いです。

 例えば、仕事の悩みであれば同業種や同年入社の者、育児の悩みであれば同じ地域で育児中の者、といったように、人は、何かしらの共通点が有る相手を意識して選び取って話題にしています。

 

 しかし、私に対して打ち明けられた悩みの内容は、離婚調停と自分の両親との関係性が絡んだもの、パワハラの被害に遭った末退職して実家に戻ってきた後の過ごし方と転職活動美容整形手術を受けた後のローンの支払いといった、私には無縁のものばかりでした。

 

 当時、私は、離婚どころか結婚すらしていない、退職どころか就職すらしていない、美容整形手術など考えた事すらない、20歳前後の女子大生でした。

 20代後半から40歳近くの女性に多々見られる悩みの内容であるのか、それとも、その世代の中での少数派なのか、少し疑問を抱いた時期も有りましたが、恐らく後者であろうと推測しています。

 

 そして、これらの悩みには、必ず生い立ちに関する事柄や、その問題("Question"ではなく"Problem")に至るまでの経緯に背後に隠れた更なる問題が巨大なものとしてそびえ立っているのです。

 本人の申告している具体的事象に至るまでに、幾つもの問題が有り、それが顕在化しなかっただけという話です。

 

 

 数年間にわたり、何故私が悩み打ち明けられる対象として相手に選ばれたのか、考え続けていました。

 

 単純に、年齢や職業が大幅に異なると、共通の知人が少なくなり、他人に知れ渡る可能性が低くなるという理由も考えられますが、話者と共通の知人である同世代の者には全く打ち明けられていない事から、この理由は決定的要素ではないと判断しました。

 

 何となく話を聴いてくれそう、寄り添った接し方をしてくれそう、と見られていた可能性も考えましたが、数々の相手が求めていたのは、上辺の共感や自分を全肯定する言葉ではなく、私に精神的に依存する事であることから、この可能性は低いと判断しました。

 

 実際、悩み打ち明けられる対象として私を選んだ理由を直接本人達に問うてみると、

 

 「コンプレックスを抱いていなさそうだから」

 「自分に自信がありそうだから」

 

 という答えが異口同音に返ってきました。

 

 即ち、結婚や就職や外見について、私自身がコンプレックスを抱いておらず、満たされているから、この人には自分の弱み打ち明けられると云う主旨の返答でした。

 これは非常に興味深い回答でした。

 悩み打ち明けられる対象が、その項目に関して全く悩みを抱いていない事、考えた事すら無い事に、話者は何らかのメリットを見出しているのです。

 他人を羨んだり嫉妬したりする者が相手では、同性間、殊に年下の場合、依存できないという究極の事実を彼女たちは本能的察知していたのです。

 

 それまで、私自身は、同種の悩みを持った者同士で話し合っていれば、持ちつ持たれつの関係で、特定の者だけが毎回負担を強いられる事無く円満な関係を築く事が出来るのではないかと捉えていただけに、その悩みとは無縁で対極に居る者を相手に選ぶ意図は意外でしたが、徹底的に私の要素を貪食しようとする依存体質の者の本質が解った気がしました。

 

 また、私が悩み打ち明けられる対象として相手に選ばれた理由として、コンプレックス云々の他に、私自身が生へのエネルギーに乏しいからという事柄が挙げられると思います。

 そもそも、他者への羨望嫉妬という感情は、自分の欲望のエネルギーが大きいが故、湧き起こるものではないかと私は考えています。

 美味しい物を沢山食べたい異性から賞賛されたい、このような感情を抱いた、生へのエネルギーが活性化された者が相手では、依存するのが難しいのです。

 

 様々な欲求が乏しい者は、自らの感情を抑え、物事をニュートラルに判断できる上、依存しやすい相手として利用されやすい、このような事です。

 

 

 更に言うと、年下で、学生で、その悩みに関する事項の経験値が全く無い者が相手であれば、何か自分にとって受け容れ難い返答を得た時、

 「あなたは未経験だから解らない」

 という切り札が使えますので、都合の良い言葉だけを取り入れ、自分の思い通りにならない返答を得た時には、「やっぱりあなたは未経験だから話が通じないのね」と云う他責にして逃げる手法が使用可能なのです。

 

 

 自分の悩み他人に打ち明けるという行為は、他人に一方的に負担を強いるという事です。

 カミングアウトは、する側よりも、圧倒的にされる側の方が精神的負荷がかかります。

 

 他人の秘密を知りたい他人の不幸話を聴きたい、このような思考の持ち主には、不思議と本当に不幸な話を相談される事は有りません。

 

 学生時代、或る大学教授からも研究室の人間関係やご自身の子どもとの問題を長期間個人的に打ち明けられていました。

 この件は、私が口外しない者だと認識されていたからだと思いますが、業として一方的に話を聴く代行屋が営業を続けていられる理由が私には判ります。

 

 世の中、圧倒的に話し手聴き手では、聴き手不足しているのです。

 

 人生経験が長く、細分化されてくると、話し手思考に付き合うだけでエネルギーが根こそぎ奪い取られるのです。

 

 

 匿名ブログやSNSアカウントにて発信するだけでは満足できない、自分の心酔者肯定役が居なくては精神的不安を抱く者が圧倒的多数なのです。

 

 

 或る映画の10巻以上にわたるDVDを全て観て、その感想を語り合いたい、だからレンタルDVD屋でDVDを借りてきてあなたも全て観てほしいという要望も10歳以上年上の女性から執拗に頂きました。

 私はお断りしたのですが、「この映画を観ないなんて感性がおかしい」と言われ、私が「その映画を観た人と語り合ってはどうか」と提案したところ、「あなたと語り合いたいのであって、他の人が相手では意味が無い」という返答を得た時、徹底的な依存体質を感じ、恐ろしくなりました。

 

 常に100対0の割合で人間関係が進行しなければ気が済まない、このようなアダルトチルドレンから身を守る為に、冷たい人であり続けたいです。

 

 

 

 【本日のピアノの練習について】

 

 ・バッハ インベンション第1番(暗譜済)

 ・バッハ インベンション第2番(暗譜済)

 ・バッハ インベンション第3番(暗譜済)

 ・バッハ インベンション第13番(暗譜済)

 ・バッハ インベンション第9番

 ・バッハ インベンション第4番 (暗譜済)

 ・バッハ インベンション第7番 (暗譜済)

 ・バッハ インベンション第8番 (暗譜済)

 ・バッハ インベンション第12番 (暗譜済)

 ・バッハ インベンション第14番

 ・バッハ インベンション第5番

 ・バッハ インベンション第15番

  ・バッハ シンフォニア第11番(暗譜済)

 ・バッハ シンフォニア第8番

 ・ショパン ノクターン第20番(遺作) 

 ・ショパン エチュードOp.10-4(暗譜済)

 ・ショパン エチュードOp.10-12(革命)(暗譜済)

 ・ショパン エチュードOp.10-8

 ・ショパン バラード第1番(一部のみ)

 ・その他(スケール、アルペジオ、半音階、その他) 

 

 長らく寝かせていたショパン エチュードOp.10-8を少し練習しました。

 

 数日間、人前で演奏する事について考えていたのですが、披露したい人聴きたい人素人間に於いて、話と同様、圧倒的に披露したい人過剰なのではないかと思う事がしばしば有ります。

 

 私がピアノを再開してすぐに習いに行く決心がつかなかったのはこの概念が常に有ったからです。

 義務教育の間は、無条件に「教わる側」でいられましたが、大人になってからは、あらゆる関係性を築く際、不均衡を生じないか相手に理不尽な負担を強いていないか、このような事を考えるようになりました。

 

 ピアノ人前で演奏する事により、誰かしらに不幸が生じないか。

 私自身が、他人の悩みを打ち明けられる事に対し非常に嫌悪しているからこそ、そう考えざるを得ません。