1月も下旬に差し掛かり、2022年も24日目となりました。
標題の件ですが、楽しいという純粋な感性についてです。
人間は、外部から身体的な刺激を受けると、それは感覚器を通じて末梢神経障害を通してニューロンを介し、中枢神経系へと伝達されます。
そこで、大雑把に「快」と「不快」とに二分した際、「快」については義務感を伴わず、寧ろ抑制する事の方が難しい場合もあるのに対し、「不快」については報酬を求め、自分の予想した報酬を下回る結果しか得られなかった場合、第三者行為であればその第三者を嫌悪するに至る傾向にあります。
例えば、ヒトの味覚は基本的に5種類に分類され、甘味に関して「快」を抱く個体が、甘味を抑制された場合、中枢神経を通して「不快」と脳が判別し、その「不快」である状態に耐えたからには、何らかの報酬が無ければ割に合わないという不満が芽生えてくる現象が挙げられます。
よく、「ダイエットしているから甘い物を我慢したというのに、全然体重が減っていない。あの我慢は何だったんだ」などと嘆きの声を耳にしますが、これはこのような神経系の働きに起因しています。
この反応は、ヒトの感情としてごく自然な流れであり、理屈で以て説得して相手の「不快」を「快」へと変化させることは極めて困難なのです。
自分自身の意思によりダイエット行為を始めたとしたのならば、自分の予想した結果が得られなくても他責にすることはなく、新たなるダイエット方法を考えるか、もしくはダイエット自体を止めるなど、自分で「納得のいかない結果」について折り合いをつける事ができるのですが、問題は他者が介入する行為についてです。
他者から引き止められて望まない内容の雑談や飲み会に付き合わされた時など、成人の場合、大抵は「不快」と中枢神経系の働きにより脳が判別します。
ただし、そこに参加する事により、社会的地位の確保やそこでしか得られない情報などの報酬が得られるのだとしたら、それは我慢できる行為だと大半のヒトは理性で以て判断できます。
ここで厄介なのが、各個体にとって「快」「不快」だと感じる条件に微妙な差異が有る事で、この各個体の差異を認識していなければ、コミュニケーションに誤解が起こる原因となります。
各個体の認識する「快」「不快」の識別は、理性とは別に自然に沸き起こる感情に近い感覚と言っても過言ではないと思います。
その、人それぞれ自然に沸き起こる感情や、その人固有の感性を否定する事は、生理現象を否定するのとほぼ同義であると私は考えています。
前置きが長くなりましたが、私は、他者が介入する行為に於いて、楽しいという純粋な感性で以て何かと接した事があまり無いのです。
ほぼ全ての行為について義務感がつきまとうため、
「雑談にこんなに付き合ってあげている」
「話を聴いてあげている」
このような感情が常に沸き起こるのです。
考えてみれば、20歳頃から、ごく数名を除いて話をしていて楽しいという感情を抱いた事はほとんどなく、毎回毎回「不快」な想いしか込み上げてきません。
これは、20歳頃から、ほぼ毎回、自己否定以外の言葉を受けた事が無い事も一因です。
大抵は、私自身の興味の有る話を自分から振ると「それは興味ない」、「そんなことに興味を持つのはおかしい」、「その話はこれで終わり」と締められ、その後、相手の興味の有る話や身の上話を延々聴かされる羽目になるのです。
私は、楽しいという純粋な感性で以て何かをした事が有るのだろうか。
自問自答してみると、義務教育修了後は、専門教育に関する学問とピアノ以外にほとんど無いのではないかとすら思えてきます。
私が「大抵の人が苦痛に感じる基礎練習」に対して、あまり苦痛を感じないのは、基礎練習が楽しいからではなく、ピアノの基礎練習以外のほぼ全ての行為に対して「不快」に感じているからではないかとすら思う事が有ります。
一般的に、何よりも好きで熱中している物事について、「三度の飯より好きなもの」という言葉が用いられますが、この言葉を知った時、一日三食摂る事が苦痛ではなく、寧ろ「快」である事が前提とされており、三食摂る事が「不快」「無駄」「栄養摂取の為に仕方なく行っている事」であると感じている者にとっては、ほぼすべての物事が「三度の飯より好きなもの」になってしまうのです。
物事に対し、「不快」の度合いで相対評価を下した場合、「楽しい」という「快」である事象よりも、「不快」の度合いが低い、所謂「マシ」な事象が、その人にとって「好きな事」になるのは必然です。
私は、中学生の頃から、上述の事を考えており、大学に入学した時、周囲の数名にこの話をしたところ、同様の見解を持っている者が意外に居たのでわずかばかり安堵しました。
友人の中に、「今まで19年間生きてきて、人と話すのが楽しいと思った事が一度も無い」と言っている人もいたほどです。
矛盾するようですが、彼女と友人になって濃密な話をできた事が、私にとって非常に充実した時間でした。
教授の中にも、「学生と接していて思うのだが、人生で楽しい事が何も無いから研究活動に励んでいる人が多いのではないか」と発言している方がいらっしゃいました。
人間の三大欲求に楽しみを見出せず、一見して生への適性がない者こそが、高等動物として、何かを成し遂げる事に適性が有るのではないかと思います。
【本日のピアノの練習について】
・ハノン 13,14番、23番
・バッハ インベンション第1番(暗譜済)
・バッハ インベンション第2番(暗譜済)
・バッハ インベンション第3番(暗譜済)
・バッハ インベンション第13番(暗譜済)
・バッハ インベンション第9番
・バッハ インベンション第4番 (暗譜済)
・バッハ インベンション第7番 (暗譜済)
・バッハ インベンション第8番 (暗譜済)
・バッハ インベンション第12番 (暗譜済)
・バッハ インベンション第14番
・バッハ インベンション第5番
・バッハ インベンション第15番
・バッハ シンフォニア第11番(暗譜済)
・ショパン エチュードOp.10-4(暗譜済)
・ショパン エチュードOp.10-12(革命)(暗譜済)
・その他(スケール、アルペジオ、半音階、その他)
ピアノの練習について、何が楽しいのか、本当に好きな曲は何なのか、自問自答してみると、一人になれる時間を確保できる事、これがピアノの練習に取り組む本質であり、嫌な事から逃れる為の手段としてピアノを利用しているようにも考えられます。
他者からの攻撃や干渉から身を守る為にピアノに取り組んでいる、そのような解釈もできます。
そして、私自身の人生の自己解決のための手段としてピアノを利用している、これが実態です。
それ故、私は毎日ピアノの練習が続くのです。
※本記事は投稿前、睡魔に襲われて記載時刻に投稿できなかったため、2022/01/25 07:55投稿ボタンを押下しております。