ビロードのような質感が印象的な薔薇の花です。
日本で作出され、黒真珠と名付けられた品種です。
これ程までに名前と花の形状とが一致する薔薇の花が有るのだろうかと感銘を受けるほど、命名者の感性に惚れ惚れします。
【本日のピアノの練習について】
・ハノン 1~20番の中から5曲
・バッハ インベンション第1番(暗譜済)
・バッハ インベンション第2番(暗譜済←本日初☆)
・バッハ インベンション第13番(暗譜済←本日初☆)
・バッハ インベンション第9番
・バッハ インベンション第4番 (暗譜済)
・バッハ インベンション第7番 (暗譜済)
・バッハ インベンション第8番 (暗譜済)
・バッハ シンフォニア第11番
・ショパン ノクターン第20番(遺作)(暗譜済)
・ショパン エチュードOp.10-12(革命)(暗譜済)
・ショパン エチュードOp.10-4(暗譜済)
・ショパン バラード第1番(一部のみ)
・その他(スケール、アルペジオ、その他)
昨日、暗譜について言及しましたが、暗譜を視野に入れて練習に取り組むより、何度も繰り返し練習することにより自然に到達する地点が「暗譜」なのだと云う結論に至りつつあります。
バッハのインベンション第2番、ならびに第13番について、毎日毎日執拗に練習しているから楽譜を見なくても既に覚えているのではないかと思い、昨日の第1番同様楽譜を閉じて弾いてみると、最後まで暗譜で通せてしまったのが実情です。
ただ、暗譜して1曲通していると、次の音や次のフレーズのことなど、所謂「未来の事」を考えてばかりで、「今の事」に集中できないので、真の意味での暗譜ができたとは言い辛いと云うのが現時点での正当な判断です。
もっと突き詰めて言ってしまえば、第8番以外は自力で正確な分析ができておらず、自分のものになっていなかったため、内容空疎な行為を繰り返していただけなのかもしれません。
これは、真の意味で気に入ったインベンションの曲が第8番だけだったと云うことと同義だと解釈して差し支えないでしょう。
この解釈が正しいと仮定すれば、私はバッハのインベンションを好きでもないのに毎日練習していたと云うことになります。
バッハのインベンションに着手したきっかけが、「他の曲の上達への打算」であったが故、この因果関係は必然なのかもしれません。
その物事を心底好きで、それを「最終地点」として取り組んでいる場合でなければ、何らかの「打算」が生じるのは必然です。
この件については、少し保留しておきます。
2ヶ月以上前、ピアノの体験レッスンに行った際、先生から、このような意図で取り組んでいるのなら、インベンションのレッスンではなく、自分の好きな曲のレッスンをした方が良いと助言を頂いたことも、上述の件と関連しているのかもしれません。
先生の前で1曲弾いてみたので、私がどことなく義務的に取り組んでいた事が判ったのかもしれません。
私の中でもう一つ解消しきれない問題が有ります。
何か習得したい曲が有り、その曲へ向けて他の曲に「ステップ」として取り組んでいる際、「ステップ」として利用されている曲に対しての冒涜行為なのではないかと云う概念が払拭できないのです。
好きになれ、愛着を持て、と言われても、正直な気持ちとして、人間は好き嫌いと云う感情を抱いて当然です。
好きか嫌いか、の二択であれば、間違いなく「好き」の分類に入るのでしょうが、「好き」の中にも優先順位があり、私の渦巻く感情の中に無意識のうち形成されたその序列の中に、偉大なる音楽の父であるJ.S.バッハの楽曲を、幾ら練習曲として作成されたものであるとはいえ、組み込んでよいのか、と云う葛藤と毎日闘っています。
3ヶ月半以上毎日毎日バッハのインベンションを練習して、何故今も尚好きになれないのか、自分の感性に何か問題が有るのか、などと考え始めると、最近ピアノの練習の仕方そのものに対して考えることがしばしば有ります。
そもそも何故ピアノなのか。
何故再開して初めて練習した曲がショパンエチュードOp.10-4だったのか。
正直、ショパンエチュードOp.10-4は一生「憧れ」で終わる曲だと思い、楽譜すら開いた事がなかったのですが、この1曲に人生賭けてみようと思って取り組んでみた結果、毎日朝から90分練習した結果、自分でも驚くほど巧くなっていたと云うのが事実です。
「再開して初めて楽譜を見た曲を、少なくとも1曲は趣味の習い事レベルとは言え仕上げた」
これが大きな自信となったものの、やはり基礎力については不足している感が否めません。
Op.10-4には出現しない右手オクターブ奏法について今苦戦していますが、この件は日々練習する事で克服していきたいと思います。
ここまで記載して判った事ですが、バッハのインベンションを練習することにより、私の苦手とする分野が克服された訳ではないと云うのが、インベンションにあまり愛着を持てなかった理由の一因なのかもしれません。
結局、コンプレックスを解消する為には代替手段で以てしても無意味だったと云う事が証明されたことにより、インベンションに取り組んだ意義は有ったと言えます。