一見、ヒガンバナと見紛うかのような白い花を見かけました。

 

 

 雨の雫にまみれた様子は、見方によっては妖艶ですらあります。

 この花の正式名称はナツスイセン(夏水仙)とのことです。

 

 

 角度によっては百合の花にも見えますが、ヒガンバナ科ナツスイセン(夏水仙)で間違いないとのことです。

 

 昨夜、最近旅行に出掛けられないので、情勢が落ち着いたら行きたいスポットを勝手にシミュレーションしていました。

 

 

 添付写真は仙台旅行へ出かけた時のずんだサイダーです。

 「ずんだ餅」は仙台名物で、「ずんだ」とは枝豆をすりつぶして作るペーストのことです。

 

 初めて「ずんだ餅」の写真を見た時、抹茶餡のお餅だと思っていたので、事実を知った時驚愕しました。

 肝心な「ずんだ餅」も現地でいただきましたが、私の好みで、ほのかに枝豆の味がしたのを覚えています。

 現地の方々はご家庭でも手作りされる場合もあるらしいです。

 

 そのような経緯があり、ご当地限定販売のずんだサイダーを購入してみたところ、ずんだ餅の味は後味に少し感じられる程度でした。

 ご当地限定販売の軽食は旅の思い出となるので、行く先々では毎回少しずつ堪能しています。

 

 ここ数年、百貨店の東北物産展では、「ずんだシェイク」が販売されるようになりました。

 現地に赴かなければ入手できないからこそ貴重なもののように感じられたのですが、これも時代の流れでしょうか。

 

 仙台のお土産は、萩の月が群を抜いて人気のようです。

 

 

 この青い看板仙台滞在中幾度と無く目にしました。

 

 私の「お気に入りお土産No.1」を考えてみたのですが、思い浮かぶものが有りませんでした。

 

 各地の銘菓は、その土地を実際に訪れて思い出と共に購入して持って帰ることや、その土地に行ってきた人から頂くからこそ「想い」が感じられて価値が有るのではないかと私は思います。

 

 

 

 【本日のピアノの練習について】

 

 ・ハノン 1~20番の中から10曲

 ・バッハ インベンション第1番

 ・バッハ インベンション第2番 

 ・バッハ インベンション第13番

 ・バッハ インベンション第9番

 ・バッハ インベンション第4番 (暗譜済)

 ・バッハ インベンション第7番 (暗譜済)

 ・バッハ インベンション第8番 (暗譜済)

 ・バッハ シンフォニア第11番

 ・ショパン ノクターン第20番(遺作)(暗譜済)

  ・ショパン プレリュードOp.28 No.15(雨だれ)

 ・ショパン ワルツOp-64-2(嬰ハ短調)

 ・ショパン エチュードOp.10-12(革命)(暗譜済)

 ・その他(スケール、アルペジオ、その他) 

 

 ショパン エチュードOp.10-12(革命)について

 

 

 パデレフスキ版の楽譜ですが、前奏の第1小節から左手の「アウフタクトへの意識」が要求されています。

 エチュード Op.10-4にも言えることですが、最初の1音(Op.10-4の場合は4音ですが)を出す際拍感としてアウフタクトを表現することが難しく、昨年もレッスン時一番注意を受けた箇所が「入り方」でした。

 

 自分では意識しているつもりでも、聴いている方には伝わっていないとのことです。

 先日、革命のレッスンを受けた際にもまずアクセント云々よりも「入り方」に問題が有るとのご指摘を受けました。

 

 そこで思い出したのですが、私が中学生の頃のピアノのレッスンでは、革命に限らず、最初に先生が手拍子を打ってくださって、その「拍」に乗せる形で入って、最初の数小節は「手拍子」に乗せていただいて、通して弾くこと「仕上げ」の前段階毎回行われていた気がします。

 そのように指導されなければ自分で拍を取ることが困難だったのか、その先生の指導方針であったのか、今となっては判りませんが、私は第三者が作り出した軌道に乗らなければ、自分で流れを作り出すことが苦手な事が現段階で明確となりました。

 

 

 「人」から何かを教わる事について

 

 不思議なことに、今のピアノの先生のレッスンを受けていると、過去に受けたレッスンの内容を思い出して自分の弱点を見出す事が多いです。

 「革命」「Op.10-4」既習の曲であることも関与しているのかもしれませんが、時を経て違う先生のレッスンを受けて、以前習っていた先生のレッスン内容を頻繁に思い出すようになりました

 

 書籍やサイトで得た情報ではなく、実際に私を知っていた先生から受けたレッスン内容は、一生物なのではないかと今更ながらに思います。

 中学時代、「単なる趣味としての習い事」だと認識していた毎週のピアノのレッスンを、20年以上経った今、教本が既に手元にない状態であるにもかかわらず、克明に思い出している事に自分でも驚愕しています。

 

 「実際にその土地を訪れて自分で購入したお土産」と、「百貨店の物産展で購入したお土産」との違いと表現しては不謹慎かもしれませんが、直接自分自身に向けられた「指導」には、魂が宿っていると今改めて思います。