柔らかな陽の光を浴びて咲く薔薇の花です。

 どこかしらまろやかな雰囲気が漂ってきます。

 

 

 1975年アメリカで作出され、ポートレートと名付けられた品種です。 

 

 

 ポートレートと言えば、今はスマートフォンの普及により、日常的になりましたが、以前は「撮影者」「被写体」少なくとも二人が存在しなければ成立し得ないことでした。

 

 趣味で行われるポートレートの他に、証明写真や結婚写真などを幅広く取り扱う写真館も存在しますが、お国柄によって重視する点が大きく異なるようです。

 日本の場合、背景を含めた全体の雰囲気が重視されます。

 一方、韓国の場合、バストアップを巧く撮影できることカメラマンに要求されます。

 中華圏の場合、見えない部分を徹底的に手抜きすること被写体に求められます。

 

 「見せるため」に行う撮影が中華圏の考え方の根本で、「写すため」の撮影が日本の考え方の基本となっていると私は感じます。

 

 現に、中華圏の方々が現地で結婚写真を撮影している光景を目にした時、ウェディングドレスを身に纏っていながらも足元はビーチサンダルであることは珍しくありませんでした

 

 現地の方々曰く、「足元はロングドレスの裾に隠れて写らないから何を履いても関係ない」だそうです。

 

 この文化が、4~5年程前から日本にも浸透し、各地の観光地の貸衣装を取り扱う店舗に於いて、足元とその衣装との釣り合いが取れない状態で街を歩いている観光客を多数目にします。

 

 演出として小道具に用いられるワイングラスの中に、アセロラジュースやグレープジュースを入れて撮影することが普及し、写真撮影は、「真実を記念としてありのままに残しておく行為」というよりも、寧ろ、アイデア勝負「如何に代替品を使って創り上げるか」、「背景をどのように創作・選出するか」と云う点が重視されるようになった気がします。

 或る意味そのような現状も「ありのまま」と言えます

 

 物が溢れ、物質的に豊かになるにつれ、本来の「真実を記念としてありのままに残しておく行為」から逸脱した作品を幾つも創り上げる事が趣味として成立し、物質的に豊かになると価値観が変わってくることを実感しています。

 

 

 

 【昨日(2021/9/10)のピアノの練習について】

 ※昨日は早めに就寝してしまったので、今PC起動して昨日分の記録を記載しています。

 

 ・バッハ インベンション第1番

 ・バッハ インベンション第2番 

 ・バッハ インベンション第13番

 ・バッハ インベンション第9番

 ・バッハ インベンション第4番 (暗譜済)

 ・バッハ インベンション第7番 (暗譜済)

 ・バッハ インベンション第8番 (暗譜済)

 ・バッハ シンフォニア第11番

 ・ショパン ノクターン第20番(遺作)(暗譜済)

  ・ショパン ワルツOp.64-2(嬰ハ短調)

 ・ショパン エチュードOp.10-12(革命)(暗譜済)

 ・ショパン エチュードOp.10-4(暗譜済)

 ・その他(スケール、アルペジオ、その他) 

 

 ショパンエチュードについて

 

 最近、メカニック的なテクニックの衰えが顕著であるため、毎日Op.10-4を練習することに決めました。

 8月某日のレッスンにて、Op.10-4を弾いてみると、「指が細かく動いている割には身体の使い方ができていない」とのことで、色々とご指摘いただいた部分が多いです。

 改善策として、左右対称な半音階を毎日3オクターブ往復しているのですが、未だに意識しなければ右肩と右の手首の使い方に問題が生じています。

 普段のPC入力の際の物理的姿勢にも問題があるのではないかと思いつつあり、今、意識して改善に努めています。

 

 

 バッハ 平均律について

 

 最近、気温差が激しく、体調面に於いて不安要素を多く抱えています。

 したがって、本調子になるまでの間、暫くバッハ 平均律はお休みすることに決めました。

 

 

 基礎練習について

 

 本日はショパン バラード第1番をお休みし、基本に立ち返り、スケールを全調練習しました。

 4オクターブ×2往復だけでなく、3オクターブを1往復→カデンツ2オクターブを1往復→カデンツなどのパターンを用意して練習してみると、折り返しに問題が有るのか、4オクターブを「勢い」に任せて上行していただけなのか、浮き彫りになります。

 

 暫くハノンから離れ、好きな曲ばかりに取り組んだ結果、曲想、アイデア、感性、そのような事柄以前の問題として、メカニック的なテクニックが致命的に衰えています

 

 ピアノに於いては、写真撮影のように、見えない部分を誤魔化すことを「テクニック」とは呼べないのではないかと私は思います。

 

 「よく判らない相手に誤魔化して聴かせるため」ではなく、「自分が納得できるため」に、私は日々ピアノに向かっています。

 これは、昭和時代、日本人が写真を撮っていたときの本来のスタンスとよく似ていると思います。

 無理をしない程度に日々頑張っていこうと思います。