私のお気に入りのエレガントな薔薇の花です。
1998年にアメリカで作出され、ダイアナ・プリンセスと名付けられた品種です。
この二色使いが美しいと感じます。
「華麗」というより「優雅」という言葉が似つかわしいです。
このような優雅な雰囲気に浸ることができる薔薇園にも入場料が必要です。
…「入場料?そのような『現実』の話ばかりするのはやめてほしい。綺麗な世界だけを見ていたい」と思われる方はこの先をお読みになる事を控えた方が良いと思います。
現実的に、資本主義社会で生活していくには一定のお金とスキルが必要です。
先日から、時間とお金、何かをお断りすることについて頻繁に述べてきましたが、最近、日本では意外にこの件について教育がなされていないことに驚愕する事が多いです。
私自身、幼少期から何かをお断りすることとそれに伴うリスク、自分の能力を考慮して出来る範囲内で物事を引き受けることについては、家庭で教えられてきたので、お断りすることについて全く罪悪感を抱いていません。
時間とお金についても、義務教育修了後は親しい友人間でも細かくやり取りする文化の中で育ってきたので、無償で他人に何かを依頼したり、また、自分が引き受けたりすることに著しい違和感を抱いています。
よくある例を挙げると、恋愛の悩みについて、一方的に聴いて貰うのなら食事代は全て奢る、的確なアドバイスが得られたと感じたら「車代」として帰りに「色」を付けて渡す、講義ノートを貸して貰ったらどんなに親しい友人間であれ1回一定金額を現金で前払いする、試験前にまとめノートを「等価交換」できる場合はその限りではない、私の周りには、このような習慣が高校時代から根付いていました。
大学に入ってからも同様で、話を聴いて貰うのならば、相手にお願いして食事代は全て奢るのが「常識」でした。
割り勘(自分で頼んだ分を自分で支払う)であれば必ず会話は全て対等、一方的に何か悩み事を相談するのは厳禁です。
そして、クラス会など飲み会の幹事には、幹事を引き受けた「御礼」「時間と労力を割いた手間」として、飲み会が無事終了した時点で参加者全員でまとめて幹事に一定金額を現金でお支払いするのが通例でした。
飲み会の規模や重要度にもよりますが、この習慣については教授陣からも厳しく指導されていました。
「本来対等な立場であるはずの学生同士の間で、『仕事』をしなければならない相手に『対価』として『報酬』を渡さないのはおかしい」
このような考え方です。
これは、無償でお願いした場合、お願いされた側に責任感が無くなり、仕上がりがどのようなものであっても文句を言えないと云う思想にも基づいています。
集団の質、公平性を保つ為にも、金銭の授受、等価交換は必須なのです。
私は、このような文化の中で10代後半の頃から育てられてきたので、学外の知人から食事に誘われて、一方的に失恋の愚痴を聴かされて「割り勘」だった時、レジの前で「え?割り勘?」と大袈裟に言って相手に気付かせようとしたのですが、平気で割り勘を貫かれた上、「こっちが落ち込んでる時にも奢ってくれないって本当に酷いよね」とまで知人に言われた時、「そんな最低限の『常識』すら持ち合わせていないから振られるのは当たり前」という言葉が喉元まで出掛かりました。
この知人とは、この件以降全く連絡を取っていませんが、今振り返れば育った環境の相違がこのような誤解を産んだのかもしれません。
このような価値観は私の周りに強く根付いており、無償で何かを依頼するからには、その仕上がりについて何があろうと文句を言ってはいけない、無償で依頼した自分を深く反省すべきだと教えられてきました。
「何があろうと」と記載しましたが、例えば、本来対等であるべき人同士でのクラスの枠組みで、誰かを代表で誰かを何らかの行事に出席する為に選出する場合、本人が自ら立候補した場合は別として、誰も立候補せずにくじ引きなどで罰のように「強制的に押し付けた場合」、代表となった「くじ引きで負けた人」が、当日欠席したとしても誰にも責める権利はないのです。
誰も立候補せずに、集団の総意として、「この中の誰がこの『仕事』を担当したとしても、その人に無償で全てを任せる」と一人一人が判断した以上、自分が結果に不満を抱くのであれば、「引き受けなかった自分が悪い」と、一人一人が反省しなければならないのです。
実際、私はこのような状況の時、体調不良で欠席しましたが、翌日登校しても誰からも叱責されることはありませんでした。
私自身も謝罪など一切しませんでしたし、全く罪悪感を抱くことはありませんでした。
一名私のことを非難する者がいましたが、寧ろその者が全員から批判されていました。
結果的に、私を非難した者は学校に馴染めず不登校になり、自主退学していきました。
高校の担任教師は、明らかに体調不良になりやすい人がくじ引きで負けた時、当日の『結果』を予測して危機感を抱き、誰も代わりに引き受けると申し出なかった自分たちの行動を反省するよう発言してその場は終わりました。
「無償で他人に『仕事』を押し付ける」とは、そういうことなのです。
報酬が無いということは、ペナルティも無いのです。
そして、無償で他人に何かを押し付けた以上、どのような結果になろうと相手を責めることは禁忌なのです。
集団から排除されるのは、当日欠席した「くじ引きで負けて仕事を押し付けられた人」ではなく、結果に不満を述べる人なのです。
不満が有るのなら、何故自分が引き受けないのか?
「くじ引きで人選を行うということは、全てを「運」に任せて自分が決定権を放棄したのと同義で、決定権を放棄したからには結果に不満を述べる資格などない」
このような価値観で以て運営されている集団が世の中には沢山存在します。
そして、くじ引きの結果も体調不良も「運」が99%以上関与します。
この事実を高校生になっても理解できない者は日本の高校を卒業することなどできません。
実際、この結果に不満を述べていた者は高校を中退しています。
勿論、私も精一杯「自分なりに」頑張った結果の欠席でした。
100%尽力しましたし、具体的に何をしたのか、担任教師に証拠を提示した上で詳細を述べたので上述のようになりました。
報酬の無い分野に於いては、結果は一切問われません。
「自分なりに精一杯頑張りました」、この一言で全て許されます。
趣味の世界と同じです。
趣味で取り組んでいる物事の仕上がりが悪いことについて、非難する者が居たとしたら、通常、その者が批判されます。
日本では、義務教育修了後、全ての行動について、権利と義務とが隣り合わせに存在します。
断る権利のない事柄については結果を出す義務など無いのです。
ただ、自分から引き受けた場合は話は別です。
くじ引きで負けるなどの方法で押し付けられた場合、強制力が働くので、結果がどうであろうと、自己申告の「自分なりに精一杯頑張りました」の一言のみで許されますが、自分から引き受けた場合、最低限「出席」しなければ信頼を失います。
故に、何かを引き受けること、何かを他人に依頼すること、どの人に依頼するのが適切か、何かをお断りすること、断りきれなかった場合の対処法、お断りした時のリスクとメリット、この件については幼少期から家庭に於いても教育が必要なのではないかと私は思います。
全て明朗会計で「裏口」「裏金」が一切通用しない業界では、大学入学時から、「お金と時間とスキルとの均衡を保つ事」「権利と義務」「人選のコツ」、このような概念を生活の隅々まで教育されます。
「無償で何かしたくない事をする」、これは義務教育修了後に行うと、自分を安売りする事に繋がるのです。
【本日のピアノの練習について】
・バッハ インベンション第1番
・バッハ インベンション第2番
・バッハ インベンション第13番
・バッハ インベンション第9番
・バッハ インベンション第4番 (暗譜済)
・バッハ インベンション第7番 (暗譜済)
・バッハ インベンション第8番 (暗譜済)
・バッハ シンフォニア第11番
・ショパン プレリュードOp.28 No.15(雨だれ)
・ショパン ノクターン第20番(遺作)(暗譜済)
・ショパン ワルツOp.64-2(嬰ハ短調)
・ショパン エチュードOp.10-12(革命)(暗譜済)
・ショパン バラード第1番
・バッハ 平均律 第1巻 第1番(ハ長調)(プレリュード部分のみ)
・その他(スケール、アルペジオ、その他)
薔薇1の話を記載したいのですが、気になっていた事を少し…。
ショパンのエチュードOp.25-2とバラード第4番の最初の部分が似通っていると感じ、よく見てみると、
(上記添付画像の赤枠で囲んだ部分:エチュードOp.25-2と下記添付画像の赤枠で囲んだ部分:バラード第4番)
音が共通しています。
最近、体調が芳しくないのでよくこの高校時代のことを思い出しているのですが、同じような価値観の人達の集まりで居心地が良かったと思うと同時に、この価値観は自分の周り以外では通用するのか疑問に思います。
ただ、「自分の周り」から出ることを全く考えていないので、今のところは大丈夫なのではないかと思っています。
私の周りの人達のほぼ全員、どの高校出身の人でも、「人間関係に関しては、人生で一番居心地が良かったのは高校が同じだった人」と言うのですが、この時期に価値観が形成されていくのか、同じような価値観の人が同じ高校に集まるのか、考えれば考えるほど不思議に思います。
入学する高校はくじ引きで決まるわけではないので、何らかの理由が有るのだと思います。
朝晩、冷え込みを感じる季節に差し掛かると、丁度このくらいの気候の時に起こったことだったと思い出します。