陽の光をふんだんに浴びた黄色い百合の花です。
写真にして見ると、真夏の夜の神秘的な光景のようで、花火を連想させる節が有ります。
以前、デッサンの際には、対象を観る時間と描く画用紙を観る時間の割合を、3:1にするとよいと美大を卒業された方から助言を受けた事が有ります。
手元に視線を伏せて画用紙を観る時間が2秒間である場合、6秒間は描く対象をよく観察し、この繰り返しをすると云う意味です。
これが一般論なのか、私の適性に合わせたものなのか、今では定かではありませんが、何か初めて物事に接して、それをアウトプットと云う形で表現する為には、自分の中で理解・咀嚼する時間と、自分が「捉えたと思い込んでいるもの」を体現する時間について、前者の割合を高くした方がよいと云う意味なのかもしれないと最近思い始めました。
私自身、デッサンなどのスケッチを趣味としている訳ではないのですが、日本の義務教育で行われていた理科の時間の「顕微鏡を覗いて別の用紙に観察対象をスケッチすること」、この更に専門的な事柄を大学時代も課されていた事が有ります。
その際、スケッチのコツを細かく学んだ訳ですが、「観る眼を養い培う事」、この点の克服について、私も含め大抵の学生が難儀していたように思います。
当然、美術で要求されるスケッチの技巧と、広義の理科に於けるそれとでは全く異なります。
「描き方」「標本となるプレパラートの作成法」、この2点の肝要点については大抵すぐに習得できるのですが、「観る方法」、「観る眼」、この点を培う(単に「養われるもの」ではなく、能動的に「培う」事を意識する)にあたっては、対象となる物事の特性を予め識っておかなければ着眼点を大きく外してしまいますし、それなりの経験も必要です。
この件を振り返り、大人の場合、ダンスや楽器の演奏方法を習得する際も似たような事が当て嵌まるのではないかと思うようになりました。
即ち、自分の中で理解・咀嚼する時間の量と質を再考すべきだと云う事です。
【本日のピアノの練習について】
・ハノン 1~20番の中から15曲
・バッハ インベンション第1番
・バッハ インベンション第2番
・バッハ インベンション第13番
・バッハ インベンション第9番
・バッハ インベンション第4番 (暗譜済)
・バッハ インベンション第7番 (暗譜済)
・バッハ インベンション第8番 (暗譜済)
・バッハ シンフォニア第11番
・ショパン ワルツOp.64-2(嬰ハ短調)
・ショパン ノクターン第20番(遺作)(暗譜済)
・ショパン エチュードOp.10-12(革命)(暗譜済)
・その他(スケール、アルペジオ、その他)
◆そもそもバッハのシンフォニアが好きなのか
この点は非常に重要です。
趣味と云うものは、好きである事が大前提で、義務になってしまってはならないのです。
思い入れの無い曲の練習を進めたところで上手くならないのは当然です。
昨日、シンフォニア第11番は運指が確定したから片手ずつ練習出来るが他のシンフォニアの曲の練習法の効率云々記載しましたが、そもそもバッハのシンフォニア第11番以外にシンフォニア(3声)の曲に自分が着手したいのか、胸に手を当てて考えてみると、今のところ「したくない」と云うのが本音で、ポリフォニーや保持音を学ぶ為に義務的に取り組もうとしているだけです。
義務的に取り組んでいる曲について、自分の中で理解・咀嚼する時間の量と質を向上させようなどと云う意欲が湧いてこないのは当然です。
そうすると、選曲から考え直すべきではないのかと思えてきます。
以前も記したように、ショパンの曲だけを練習していればそれでよいのではないか、と考える事もしばしば有ります。
ただ、この場合、「観る眼」を「聴く耳」として捉えると、近現代も古典派もバロック派も、一つの時代や一人の作曲家に限定して「聴いて」(”listening”をすべき。”hearing”は単なる聴力検査)いた場合、「対象となる物事の特性」を把握する事すら出来ず、結局は「聴く事」と「自分なりに表現する事」を一通り経験しなければ、ショパンの曲を1曲も「聴く事」すら出来ないのではないかとも思います。
日々この件について私自身が葛藤を抱えながらピアノに取り組んでいるので、今年の9月末までにこの結論を出そうと思います。