本日もペニチュアが可憐ながら元気に咲き誇っています。
昨年グラン・マルシェ開催中に購入したルピシアの限定品の紅茶をいただきました。
カシスの風味が強いファルファローネです。
「甘く艶やかなカシスの風味、魅惑的な男性がふわりと残す優しい香りをイメージした紅茶」
との記載文通り、優しい香りで、カシス大好きな私のお気に入りのフレーバード紅茶です。
男性と云うより、芯の強い女性を連想します。
良い意味で掴みどころのない風味を感じるのです。
【本日のピアノの練習について】
・ハノン 1~20番の中から5曲
・ハノン 21~30番の中から5曲
・バッハ インベンション8番
・ショパン ノクターン第20番(遺作)
・ショパン 幻想即興曲
・ショパン エチュードOp.10-12(革命)
・ショパン エチュードOp.10-4
・ベートーヴェン 悲愴第2楽章
・ベートーヴェン 悲愴第3楽章
・ベートーヴェン 月光第3楽章
・その他(スケール、アルペジオ、その他)
ハノンの減7の和音のアルペジオの練習により少しは指の独立が出来てきた気がします。
ベートーヴェンの悲愴第2楽章について、気になる事が有ります。
上記添付画像の赤枠で囲んだ部分を全て左手でとった方が上手く弾けるのでは…と思い始め、本日より左手を活用する事にしました。
同じく、再現部の上記添付画像の赤枠で囲んだ部分についても左手を活用しております。
昨年のGW中、上記添付画像の赤枠で囲んだ部分に関して左手を使う事を検討し、実際一部に於いては左手を使っていたのですが、今では右手を使った方が良いと判断して昨年の案は却下しております。
この内声の部分の音色を綺麗に、しかし主張しすぎずに弾く事が難しく、この部分には昨年から難儀しておりました。
ショパンのエチュードOp.10-3(別れの曲)よりは上手くこなせている気がするのですが、ベートーヴェンの雰囲気が全く出ていない気がしてなりません。
今月は「幻想即興曲やり直し月間」と規定したので、本日はまず暗譜で1回通して弾いてみてから問題点を炙り出す事にしました。
・右手の速いパッセージが続くパートに於いては、左手のバスが弱い
・中間部は左手が主張しすぎている
・コーダ部分はそもそも左手の音を間違って覚えている箇所が有る疑惑
上記の事を踏まえて、コーダ部分に関しては楽譜を見ながら丁寧にゆっくりやり直し。
ベートーヴェンにばかり着手していると、暗譜に問題無かった筈のショパンの革命で途中右手の和音の中の音が怪しい事が判明。
3日に1回は中間部の楽譜を開かなければまだ革命に関しては安心出来ません。
そして、ショパンのノクターン第20番(遺作)を本日初めて暗譜で弾いてみたところ、最後まで迷わずに弾き通せました。
しかし…左手は手の開き方の感覚だけで打鍵している状態で、右手は耳で聴いた音を思い出しながら打鍵している、完全に左右の意識が分離した状態。
例のピアノの先生とのやり取りを思い出すので暫くノクターン第20番(遺作)の楽譜を封印しておくつもりでしたが、ショパンの魅力に負けて楽譜無しで弾いてみようと思った結果がこれ…。
何かに対する熱い意思を持てば意外に暗譜出来るものなのだと実感した次第です。
ここ数ヶ月間、例のピアノの先生とのやり取りも含め、思う事が多いのですが、
・自分が受けてきた教育が全て正しいと盲信し、今の時代には通用しない方法で指導する人間が世の中に多いのではないか
→暴言を「熱心な指導」と履き違え、少しでも機嫌を損ねると、「死ね」等の本来フィクション作品の中でしか登場する事が無いと想定される暴言を平気で口にする者が多い。
これは、「先生」と呼ばれる職業に限定されず、一般の社会人にも多く見受けられる。
また、暴言に耐える事が美徳だと盲信し、自らの受けた理不尽な仕打ちを勲章のように語る年配の者が多い。
程度が甚だしくなると、暴言を暴言と認識出来ず、報道されているニュースに対してもどこが問題点であるのか理解出来ない。
・上に立つ者の中には、他人の申告を疑い、自分の思考や教科書に書かれている事が常に正しいと思い込んでいる者も多いのではないか
→一人一人の申告を信じる事無く頭ごなしに否定する態度を取る、一人と向き合うべき時に抽象化・一般化して物事を考え、その概念に目の前の人を当て嵌める。本来は逆の思考を取るべき。
抽象→具体→結論、の思考回路は英語の2,000~3,000語程度の評論文読解の際に用いるもの。
英語教育の強化により、対象を一般化する思考の癖が付いているのではないか。
最近普及している、パーソナルカラー診断、骨格診断など、一人の人間をよく見る前にパターン化する傾向が強い。
あくまでも自分のエンタメとして受け流すべき事項だが、何らかの理由を付けて他人をカテゴライズする傾向が有る。
可視化する事により、数値化出来ない分野(痛覚、感情など)が軽視されがちである。
主に上記の二点により、「体調不良で休みます」が、仮病扱いされて罵倒される結果を産み出しているのではないかと想定されます。
「写真撮影(被写体専門)」を「読書(How to本ではなく純文学)」と意訳するのと本質的には同じ思考に基づくものだと私は考えています。
「『体調が芳しくない』を『練習していないから来たくない』と意訳するような基礎的な国語力すら無い人とはこれ以上何を話しても無駄です」
などと私が率直に言う訳は無く、
「大変申し訳ないですが、私の文章力では、自分の状態を正確にお伝えする事が出来ず、メールでの意思疎通は困難だと思います。」
と、謙虚さを前面に出しているのか嫌味なのか後日読み返した時の自衛の為なのか、恐らくこの三要素が複合的要因となっているであろう自分の返信文を読み返すと、電話で相手の滑舌が芳しくなかったり声が小さかったりして聞き取れなかった時に「お電話が遠いようですが」と言う日本文化を象徴しているとしみじみ思います。
これが礼儀正しいのか陰湿なのか、解釈の余地は有ると思いますが、一つ確実に言える事は、私の日本語は全く通じなかったと云う事です。
原点回帰すると、日本語の書き言葉やピアノの巧拙よりも、休まなければならない程の健康状態が一番問題だと思います。