薔薇の品種が気になりだしたので、過去のデータを探して参りました。
過去に薔薇園を散策していた時期(5月上旬頃)に撮影したものです。
「アンネ・フランク」と名付けられたもの。正式名称は"Souvenir d'Anne Frank"で、濃いサーモンピンクの花弁が特徴的です。この名前は、「アンネの日記」で名を馳せている「アンネ・フランク」にちなんでおり、「アンネの意思を受け継いだ人々」と意訳されているそうです。50㎝ぐらいの位置に近付くと、香りが漂い、優美さの中に毅然とした姿を感じます。
本題に入ります。
ピアノのレッスンについて、先月から本気で辞めようと思い始めています。
実際、今月に入っても当日お休みしました。
行く気は有りましたし、練習もしていたのですが、前日からずっと一睡も出来ないし食事も摂れないし吐き気が止まらない…このような体調不良がずっと続いています。
お休みする時は必ず連絡しておりますが、そもそも何故このような事が起こるのか…。
思い起こしてみたのですが、
・レッスン前一睡も出来ないのはいつもの事
・そもそも眠れた事が一度も無い
・レッスン前吐き気がするのはいつもの事
→そもそもその状態がおかしいのでは…?
この件に気付き始めたのが2月中旬頃(丁度数日間ブログの更新が滞っていた時期です)。
そして、レッスン中、
・1曲通して演奏中、身体だけが硬直して意識は鮮明な事が度々起こっている
当然、指の動きも止まるので、演奏自体止まるのですが、横から先生に何か話しかけられていても「今困っているのはその件ではない」「今はピアノどころの悩みではない、もっと根本的な事を解決すべき」と頭の中で様々な考えが巡り、言語化出来ない状態が続いております。
実態として、「ピアノどころではない」のだと思います。
悩みの根源は、このブログのアカウントを登録したきっかけとなった事にあり、その件はピアノとは無関係で、ピアノの先生にこの件を告げるべきではなく、しかしピアノと関わっている限りはこの件を払拭出来ず、未だにどの曲の演奏中もその件を想起してしまう事だと思います。
少し話は逸れますが、
語学を習得する際、初期段階に於いては「自分の話」を多少なりともする必要が有ると思います。
例えば、国語(日本語)ならば、「今日の出来事」を日記として記したり、何かに対して感じた「自分の思い」を言葉として発言したりする「書く事」「話す事」です。これが躊躇なく出来るようになる為には、「言語そのもの」を習得している必要性よりも、指導者(教師、第二者)が自分にとって信用に足る人物であるか否かの方が遥かに重要性を占めていると思います。
英語でも第二外国語でも同様です。
そして、信用に足る人物か否かの判断基準は、「主観を述べた際、自己否定されない安心感が有る」事が主に挙げられると思います。
自己肯定される必要は無く、「否定されない絶対的な安心感が有る事」、これだけで構わないのです。
しかし、そのような相手に巡り合える確率はほぼ0に等しいと思います。
この条件を備えている相手に出逢えた、それだけで語学は絶対に習得出来ます。
私の場合、幼少期から全くこの安心感が無かった為、言語に於いては初期段階の時点で苦手意識を抱いておりました。
例えば、国語(日本語)の場合、短文で日記を書く宿題が出た時、「今日は、他のクラスの〇〇ちゃんとなわとびをして遊んだ。」と記載すると、句読点の打ち方や主語述語の使い方の指導以前に、「他のクラスの子ではなく、同じクラスの子と遊びましょう」などと「国語」以外の観点からの生活指導が入り、それらはほぼ自分の過去の行動に対する批判・否定であり、小学校1年生の段階でこれらの自己否定を受け続けていると、人導者(教師)と話す事自体苦手意識を抱き、作文自体書く事が怖くなり、「国語は苦手」と云う意識が生まれるのです。
私自身の自称「国語が苦手」はこのような事の積み重ねによって生じたもので、実際は「先生からの自己否定を受けるのが苦手」でした。
コメントの内容が自分の行動や感性に関する否定内容であるだけでなく、密室に呼び出されて思想矯正するまで釈放されなかった事も多く、毎回捏造文をどう記載するか、言語以前の問題にこの悩みが付き纏いました。
学習段階が進んでくると、内容が抽象化し、「自分の話」ではなく、「そこに何が記載されているか」、自らの体験や属性を話題にせずとも成立する社会問題などの題材が取り上げられる為、安心して言語そのものを学習する事が出来ます。
この段階まで進むと、教師云々から自己否定される不安がほぼ無く、文法や文章構成に指導項目が移行する為、指導者が誰であれ安心して発言出来る人が増えると思います。
一方、一般的に「理系科目」と呼ばれる分野では、初期段階から「自分の話」をする必要が無い為、指導者(教師)に嫌われている場合であっても安心して発言出来ます。
主観に過ぎませんが、指導者が誰であるか、この点は初期段階の語学と比較すると100分の1も重視されないと思います。
数学や物理の場合、どのような解答を導いたにせよ、人格否定される恐れが無い為、「教師に否定されるから」との理由で以て初期段階でその分野自体を避ける事がほぼ無いと思います。
自分の体験した出来事や感じた事を否定される事なく、「バカ」等と叱責されるとすれば、そこには正解が必ず有り、その正解から自分の思考が逸れていると云う前提で学習を進めていけるのがこれらの分野の初期段階の特徴です。
言語については、叱責される理由が不明で、指導者の気分に委ねられているのではないかと疑う事が多く、内容が抽象化する段階に至るまではずっとその学問以外の点での悩みを抱えて過ごす事が多かったです。
そもそも、特に外国語教育に於ける「自信を持って発言する」云々については、「昨日何を食べましたか?」「昨日何をしていましたか?」等の問いに対し、発音が良いか、文法的に合っているか否かよりも、自分の食べた物や行為を相手に否定される事を恐れられない環境を整えるべきだと思います。
何と返答してもその学問以外の観点から否定・批判・嫌味を込めた意見をする指導者が多すぎると思います。
私見に過ぎませんが、国語を含めた語学の時間が苦痛でたまらなかったと云う人は、語学そのものの習得が苦手だったのではなく、自分の行為や感性・属性・生い立ちを他人に否定され続けた事が辛かっただけなのではないでしょうか。
その証拠に、学習段階が進み、「自分の話」をする必要が無くなれば成績が急激に伸びた人が多いですし、これらの現象を「心を入れ替えて勉強したから」「入試に必要だから頑張った」「社会人になる前にTOEICの点数が必要だったから」等ともっともらしい理由を付けて語る人が多いですが、真相は上述の事でしょう。特に所謂理系科目が得意で国語と英語だけが苦手などと云う人にはほとんど上述の事情が絡んでいるのでは…と思わざるを得ません。
そこで、私のピアノのレッスン中に起こる「今それどころの悩みではない」問題は、ほぼ上述の件と関連しています。
幼稚園児や小学生や中学生ではないので、密室に連れて行かれる心配はほぼ無いのでしょうが、大人になって他人(何かを「教える」立場の人)に弱みを見せたらその隙に付け入られて様々な犯罪に巻き込まれる恐れが有る…そもそもAmebaの本アカウント登録についてもそのような犯罪問題の被害や対策について交流する目的で行いました。
要は、犯罪被害に巻き込まれるのが怖いから防犯のため他人(何かを「教える」立場の人)と話をしたくない、簡単に言ってしまえばこうなるのでしょうが、疑心暗鬼になりすぎるのもどうかと思い、自分の中でも当時の事を割り切れずにいます。
加害者側の言い分のブログも読みましたが…納得出来ず…。
返信を頂ければ納得できたのかもしれませんが、結局は加害者の逃げ得で被害者は泣き寝入りせざるを得ないのか、と。
全てに於いてこの構造が当て嵌まります。
未成年の頃に出逢った大人(教師・指導者)の中に偶然相性のよろしくない方が多かっただけなのかもしれませんが、親族からも常に「本当に学校の先生に恵まれないね…」と言われ続け、過去の担任教師だけで犯罪で逮捕された者が複数居るぐらい酷いです。
教え方云々以前の問題です…。
もう自分の非が無い事に対して攻撃されたくない…これだけなのですが、「これだけ」が非常に難しい…。
そして、「これだけ」は、ショパンエチュードが弾けるようになっても解決する問題ではない…。
他人に賞賛される事より、他人からの身に覚えの無い件での被害に遭いたくない…。
欲しいのは、安全な生活。
この季節によく見かける新生活スタートの広告、見たくないです…正直。
どうせまともな教育しないくせに…と思ってしまいます。
私は義務教育の教科書すら配布されずに放置されていた事を思い出すと、辛い思い出が蘇るので、小学生の新入生祝いのフェアの広告を目にするのが非常につらい…。
「何も無い普通の日」がいい。
「めでたい日」なんて無くても構わないから「何も不幸が起こらない日」を望みます。
アンネ・フランクの日記には、「将来自分がジャーナリストになったら、この隠れ家(戦時中)の様子を世に広めたい。その為に今日記として記録している」旨が記されている反面、「これは私だけの秘密」と明記されている部分も有り、一人の人間の中で矛盾する心情が描かれており、興味深いです。