「一を読んでその一を過不足なく読み取る事」、この事を最重要視して書き言葉のやり取りをしていると以前記載しました。

 この意識について、「一しか読み取れなくて構わない」消極的な心構えだと解釈されるようですが、私は、「一だけは絶対に確実に読み取る」と云う意思を含めております。

 このスタンスについて、向上心が無い意識が低い、etc.散々言われてきましたが、私は「一を読んで一だけで構わないので確実に読み取る」、この事は非常に難しいと思っています。

 

 高校に入学して初めて受けた現代文の授業で、最初に国語教師から放たれた言葉を思い出しましたが、

 「文章を読んで感想を書く、これは今の高校一年生には相当難しいです。何故なら、文章そのものすら読めない人がほとんどだからです。貴方達が感想を書くのはまだ早いと私は思います」

 

 これは、私が入学した高校が「希望して入学金を支払いさえすれば誰でも入学可能な高校」であった訳ではありません。

 それにもかかわらず、感想を書くのはまだ早い、と全員に向けられて発せられている現状から、「あらゆる点に於ける人生の経験値」に起因する問題を推測しましたが、この教師の意図は私の推測とは全く異なりました

 

 「小学校や中学校で読書感想文を書かせる先生方は何をお考えなのでしょうね。書かれている事を正確に把握する力すら備わっていない人に、『把握したと思い込んでいる事』の感想を書けと要求するのはおかしな話です」

 

 即ち、大抵の人は「与えられた文章」を誤解したまま解釈し、その誤解に気付かないままである、とも受け取れます。

 読解力の欠如を指摘すると同時に、読解力が欠如している事により生じる弊害について注意喚起しているとも解釈されます。

 そして、衝撃の言葉。

 

 「一冊の本を読んでその内容を正確に要約できる能力、否、2,000字程度の日本語で書かれた文章を正確に要約できる力、これが高校卒業時点で備わっていれば東大文系の後期試験に合格できると言っても過言では有りません。そのくらい今の高校生の国語力は低いです。感想文を書く力以前に『要約する力』が無い人がほとんどですからね。皆さんはその自覚を持って高校生活を送ってください」

 

 即ち、文章を正確に読み取り、読み取った内容を正確な日本語で書く能力を備えているだけで東大に合格出来ると云う事です。

 

 当時、東大入試に後期試験なるものが実施されておりました。

 この教師が、「前期試験」ではなく、敢えて「後期試験」を例に挙げた理由を当時汲んでみたのですが、この文系の後期試験では、主に日本語の要約力が要求されていたようです。

 要約力とは、日本語を正確に読み、読み取った内容を書き出す力の事です。

 自らの主観を一切排除する必要が有るのは言うまでもありません。

 

 この「要約力」の前段階である「読解力」が備わっていなければ、高校卒業後の社会生活に於いて、各種契約書の約款や役所の発行した書類を正確に読み取る事が出来ず、生活に支障をきたすのは明白です。

 

 私自身は東大など視野に入れていなかったので、当時東大云々に関しては特に動揺する事無く聴いていたのですが、「普通」の生活すら送れないと云う危機感を抱きながら現代文の授業に臨む事を決意しました。

 

 そして、今改めて考える事が多いです。

 

 上述の国語教師の言葉と、あらゆる現状を照らし合わせて恐ろしくなったのですが、書き言葉を用いたコミュニケーションの中で誤解が生まれる原因の大部分はやはり国語力ではなかろうかと思います。

 私はこの国語教師の現代文の授業を三年間受けたのですが、仰る事のほとんどについて納得行く事ばかりでした。

 そして、この教師の授業で要求される水準は、基礎的な内容であるにもかかわらず、果てしなく高いものであるように私には感じられました。

 その証拠に、学校外で特に何か対策をした訳ではないのですが、ただ学校に通うだけで国語が苦手な私ですらセンター試験の現代文で満点取れました

 勿論、物理的に学校の教室の中に居るだけでなく、授業を聴く事はしておりました。

 特に学校でセンター試験の対策が講じられた訳ではありません

 それでも、ただ授業を聴く、それだけはしておりました。

 ただそれだけです。

 私の場合は、「ただそれだけ」だったので、正しい日本語で書かれ、且つ専門的な内容でない文章であれば「正確に読む」事は出来ましたが、「正確に書き出す」「文章を要約する」「自分の感想を日本語で過不足なく表現する」事が出来なかったのかもしれません。

 

 高校三年間の現代文の授業中、「ほとんどの日本人は日本語の正しい文法に従って文章を正確に書く事が出来ない」と幾度と無く言われ続けていたのを思い出しました。

 それどころか、ほとんどの日本人は日本語を正確に読み取る事すら出来ず、正確に読み取る事さえ出来れば現代文に関しては旧帝大に合格する水準であるとの事です。

 この件について、高校卒業後に痛感しております。

 中学時代、「私は中学生だ」「私が中学生だ」の文法的違い、用法、etc.を細かく学ぶ口語文法なる授業が有りましたが、このような基本的な副助詞と格助詞の定義や区別からして未だに難しく感じます。

 

 日本人の中の「普通」が一番心地良いと思っておりましたが、「普通の日本人」は日本語を正確に使いこなす事が出来ないのが実態ではないかと本気で思い始めました。

 即ち、「普通の日本人」が記載した文章を読む事は私にとって相当難しく、「普通の日本人」が記載した文章を正確に読み取る為には、正確な口語文法や日本語の定義と照らし合わせ、発信者がどこをどう誤解したまま記載しているのか、この点を把握する力が要求されるのではないか、と私は考えます。

 

 ここで、美容院をはじめとした対面式のジェスチャーを交えた口語でのやり取りであれば、私の場合はあまり困難を感じない事に気付き、言葉のみを用いたコミュニケーションが如何に難しい事であるか痛感します。

 

 中学校や高等学校に於ける国語教育の重要性について、卒業後に改めて実感する次第です。

 

 「一を読んで百妄想して、自分は最低限の『一』すら誤解したままで気付かない」この状況を避けよう、この心掛けが如何に重要か、このスタンスは果たして「意識が低い」のか、「向上心が無い」のか…。

 巷で言われるコミュニケーション能力の問題云々は、大半の日本人が有している「国語力の欠如」に起因しているのではなかろうか…。

 

 

 本日、ピアノの練習中、長調のスケール全て手を付けて感じたのですが、ニ長調の左手変ロ長調の両手が苦手で、その根本的な原因は親指の潜行が絡んだ条件下で薬指で黒鍵を打鍵する事を不得手としている事です。

 「親指」「お姉さん指」を潜り抜ける事は難しいのです。

 見方を変えれば、「お姉さん指」「親指」の上にある状態でなければなりません。

 「姉」「親」を超えなければスケールすらこなせないようです。

 「ただ超えるだけ」ではなく、超えた後の着地点まで定められている、そう捉えるとスケールは非常に難しいのではないかと思えてきます。

 

 スケールが全調完璧に出来て、且つアルペジオも全調完璧なら、ショパンエチュードで難儀する部分など一箇所も無いのではないか、今ではそのような極論に至っております。

 これが誤解なのか、そもそも「完璧に出来る」とは何か、疑問は尽きませんが、何となく見えてきたものが有ります。

 

 基本的な事こそ重要で、最低限要求される事で、意外にほとんどの人が出来ない事なのだと思います。