所用で地下鉄の某駅ホームにて電車を待っている際、バッハのインベンション8番がBGMとして流れているのを耳にして、丁度私が現在毎日弾いている曲のうちの1曲なので思わず聴き入ってしまいました。
バッハはもう着手したくないと思いつつも、インベンションとシンフォニアは懐かしくなって少しずつ手を着けていく予定でいます。
昨日2月22日は猫の日だったようで、ねこをモチーフとした装飾を発見。
角度によってキラキラと輝くものは気分が明るくなり、見ているのが好きです。
「今 放て!
猫を被るな
実力以上に結果は出せない」
(モーニング娘。「恋愛ハンター」)
確かに、有している実力以上に弾ける事等無いと思います。
此処数日、ピアノに向かっていても、或る想いが払拭出来ず、通し練習の際2~3分で終わる曲であっても途中で手を止めてしまう事がしばしば有ります。
「間違えずに1曲通して弾き切る」事で精一杯だった頃から比較すると、良くも悪くも途中でピアノとは全く別の考え事をする余裕が産まれてしまいました。
私が好んでショパンエチュードを練習しようとしていた目的の一つに、「無心になれる」「余計な事を考えずに済む」等の、思考のリセットが有ると思います。速い曲を好んでいるのかと問われた時、そのような傾向が有るのか自覚しておりませんでしたが、「弾くので精一杯の曲であればその時間は他の事を考えずに済む」、この意図が潜在意識の中に有った気がします。
この意図が有って選曲しているとすると、考え事をする余裕が産まれる程に譜面通り「正確に打鍵する事」に慣れてしまった曲に関しては、「磨き上げる事」が出来ないのは当然です。
故に、ショパンエチュードの練習を敢えて進めずバッハのインベンションやツェルニー30番練習曲の復習に精を出しているのかもしれません。
昨年、全くピアノに触れた事が無い友人に、私が練習している曲を数曲伝えた時、「人を追い詰めるような雰囲気の曲ばかり選んでるよね。何でもっと穏やかな曲を選ばないの?そんな曲聴くのも苦痛だよ」と言われたのを思い出しました。
この「人を追い詰める雰囲気」と云うのは言い得て妙で、自分自身が追い詰められているからこそ、そのような曲調の曲ばかり選んでいると解釈出来ます。
「或る想い」について昨日記載しようとしたところ、自らの意図を過不足なく表現出来ず、投稿するに至らなかった訳ですが、単刀直入に記すと「書き言葉を用いたコミュニケーションが苦手な理由」、この根本的原因と意識の問題についてです。
以前、私は「普通が一番」「過不足ない及第点を狙う」この信念に基づいて生きている事を述べました。
この概念は私のアイデンティティとも言えるもので、あらゆる分野に於いて該当します。
ネットが普及し、口頭でのやり取りや対面でのコミュニケーションよりも、相手の姿が全く見えない状態に於ける書き言葉のみを用いたコミュニケーションが主流となるにつれ、誤解を産まない為にはまず過不足ない読解力が必要条件であると痛感しております。
各種SNSやe-mailに於いて、他者との交流を図る際、「一を読んで十を知る事」、この察知能力について私は備えていない事を弁えております。それ故、「一を読んで百を妄想しない事」「一を読んで一だけで構わないから確実に読み取る事」この事を最優先項目としております。
発信に於いては「気を利かせた言葉」、受信に於いては「行間を読む」行為、これらは、自分が相手を理解したと云う傲慢な思想に由来すると今では思っています。
文学作品を鑑賞する際は「行間を読む」行為、「自らの感想」これらを率直に述べる事は相手に失礼が無いと認識しております。
しかし、相手が文章を書く素人である限り、「気を利かせて行間を読んで解釈する事」、これは礼儀と云う観点から疑問視しております。
通常、幼馴染や家族でもない限り、相手のバックグラウンドを把握していると云う状況は考え難いです。
相手の事をあまり知らない、この自分は無知であると云う自覚を常に心がける事により、相手に好感を与えるコミュニケーションではなく、相手を不快にさせないコミュニケーションが成立する確率が上がると思います。
私自身、自らが発信した言葉の意図を誤解される事が非常に不快で、プライベートに於ける面識の無い相手と書き言葉のみを用いたコミュニケーションを図る際、「自分の意図が理解される事」ではなく、「自分が誤解されない事」が一番重要で、且つ「及第点のコミュニケーション」だと感じております。
よく「Aと記載するという事は即ちBという思考回路に基づいている」、「貴女は自分が気付いていないだけ・認めたくないだけで実際は〇〇なのだ」、と、自らの解釈を加えて返信を頂く事が有ります。
しかし、これらはほぼ誤りです。
あまりよく知らない相手の自己申告を何故信じないのか、何故自分が相手の事を全て把握していると過信出来るのか、この思考が不思議でなりません。
上述の件について非常に悩んできました。
極端な例を挙げると、
「昨日は端末機の調子が悪かったから返信出来なかった」と云う事実に基づいた自己申告(※謝罪文を加えるか否かは第二段階)に対し、相手から「つまり貴女は私の事が嫌いになったんでしょう」と返信されるようなものです。
このような関係性しか築く事が出来ない相手とは疾うの昔に縁が切れておりますが、私が言葉を発する事について非常に恐怖を抱かざるを得ない理由として、第一段階の「前提」の部分が誤解される恐れを多分に孕んでいる、この事が挙げられます。
実際、Amebaにて本アカウントを作成してメッセージをやり取りした中でも、この第一段階の「前提」の部分でつまずいてしまい、相手の思い込みが激しいのか、人違いをされたのか、相手の冗句なのか、嫌がらせをされているのか、自分の書き方に問題が有ったのか、未だに原因が判らないやり取りが1件有ります。
よく、「自分の正直な心情を記すのが苦手」だと述べると、「それは自分を良く見せようと思うからだ」と返信される事が有りますが、私の人生の基本スタンスである「過不足ない及第点を常に狙う」事を念頭に置いて考えると、大きな誤りです。
私自身の本音として、「自分の記した言葉が自分の意図と異なる解釈をされるのを厭う」、これに尽きます。
即ち、「誤解されるのが嫌」、これだけです。
「誤解されるのが嫌」、この感情は虚栄心に基づくのか、理想が高すぎるのか、暫く考えてみたのですが、人間として「普通」の思いではないでしょうか。
「普通である事が如何に難しいか」について以前記しましたが、「事実をありのままに伝える」、たったこれだけの事のように思える事が私にとっては非常に難しいです。
そして、この調子では恐らく読み取る事も出来ていないであろうと云う事は容易に推測出来ます。
先日、ピアノのレッスン中、和声学の話を自分から切り出し、「私は昔から勉強が苦手で…」と云う口癖が喉元まで出掛かって、否、演奏「も」苦手なのだから「勉強『も』苦手」だと表現するのが適切ではないのか、この場合「勉強『が』苦手」だと表現してしまうと自分は演奏に対して苦手意識を抱いていないと云う「事実と異なる状態」を同時に伝達してしまいかねない、そもそも勉強が苦手とはどのような状態を指すのか、その基本的な概念から解らなくなり、「今の状態をどう表していいのか解らない」等と小学生のような発言をしてしまいました…。
「私は昔から実践を伴わない机上の学習に関して苦手意識を持っている」
こう記すのが過不足ない表現だと帰宅途中気付いたのですが、国語が苦手な私がその場でこの言葉を発する事が出来る訳が無く、国語力の重要性を痛感しております。
でも昨日入浴中思い出した事ですが、私は高校3年生の頃、センター試験の現代文で満点取ったんですよ…。
この客観的事実があるにもかかわらず、ずっと「私は国語が苦手」と呪文の如く唱え続け、実際に自分の国語力の欠如を常に憂いているのは何かの洗脳教育に起因しているのか、自分の理想が高すぎるのか、単に記述が苦手なのか、苦手なのは現代文ではなく古文漢文なのか、当時と比較して苦手だと自己判断しているのか…。
正解のようで本質の問題としては全て誤りです。
恐らく、不特定多数の人に向けられて記された文章や、2,000語以上の文章、主観を伴わない文章については、読む気さえ起これば過不足なく読み取る事は出来るのだろうと思います。
語句そのものや一行のみの文章を過不足なく書き手の意図を汲み取って読み取る事が非常に難しい、この一点に尽きます。
全体とは、各部分部分の単純合計では無く、様々な情報を総合して構成されている、故に過少の情報から物事の本質を読み取る事に困難を感じている、これが実態なのだと思います。
この判断が正しいと仮定すると、書き言葉ではなく口頭であっても自分の状況を表現する事が苦手なのではないか。
日本の「普通」の基準が高すぎて「普通」の頭脳をはじめとした各種能力を持ち合わせていない私には、日本の「普通」のコミュニケーションを図るだけでも非常に困難を感じてしまう…。
今 光れ!
人のせいにすんな
自然の法則に逆らうな
(モーニング娘。「恋愛ハンター」)
相手に原因が有るのではなく、私の伝え方のスキルの問題だと痛感します。
今 放て!
その場しのぐな
厚化粧よりハートに描こう
(モーニング娘。「恋愛ハンター」)
飾った言葉ではなく、過不足ない言葉で以て表そうとしているのに、何故その場で適切な表現が出来ないのか…。
「恋愛ハンター」の歌詞は全部憶えているのですが、この歌詞の言葉だけでは自分の状況を表す事は到底不可能です。
「普通」を超越したつんく♂氏の紡ぎ出した歌詞の真意を私は汲み取れていないのではないか、とやや不安を抱きながら、一旦投稿しておきます。