幼少期ピアノを習っていた方は、ブルグミュラー25の練習曲を教本として使用していたケースが多いと思います。
私も例に漏れず全曲学習しました。
当時の教本の実物が出てきて思い起こした事が多いので、以下に記します。
私はブルグミュラーが苦手でした。
この「苦手」だった理由を考えると、以下の事実が浮き彫りになりました。
1.ブルグミュラーと併用していた教本「ツェルニー100番練習曲」と比較して、相対的にツェルニーが得意だった
2.ブルグミュラーはツェルニーと異なり、曲想を考える必要が有った
3.曲想を考えるには、学習していた当時の年齢と照合してタイトルの日本語が難しすぎた
1.及び2.に関しては、個々の特性として捉えて差し支えないと思います。
3.に関して言及すると、「ブルグミュラー25の練習曲」のそれぞれに付けられているタイトルの語彙が小学校低学年の児童には難解過ぎると云うのが私の見解です。
1番の「素直な心」、4番「子供の集会」はともかく、5番「無邪気」、8番「優美」に関しては小学校1~2年生から言葉の意味を問われた際、適切な説明が出来る大人の方が少ないと思います。
大抵の場合、最初の方から課題に出されると思われますが、「ブルグミュラー25の練習曲」は最初の方のタイトルの日本語が最後の方より難しいので、当時からタイトルについて疑問に思っていました。
実際、私自身の子ども時代、「無邪気」に関しては「気持ちを込めて弾きましょう」とピアノの先生に言われた時、意味を尋ねてみると「今の貴女みたいな感じ」と返答された事を鮮明に覚えています。
それだけ純粋無垢な子どもだったのかもしれませんが…。
レッスンの日付が具体的に記載されているのですが、記載によると、当時小学校1年生の8月でした。
日付の部分にマスキングをかけておりますが、平成初期の事です。
丁寧に先生が「無邪気」の下にルビを振ってくださっております。
注意すべき点について、赤鉛筆で丸が付けられているのですが、同音の指使いがやスタッカートが当時結構難関だったのではないかと思います。
そのようなメカニック的な事よりも、「無邪気」の意味が解らなかったが故にブルグミュラーに対しては苦手意識が払拭出来ませんでした。
8番の「優美」に至っては、曲想、気持ちを込めて、etc.先生から言われ続けたので、自宅で練習中親に意味を尋ねてみたのですが、親も困った顔をしていたのを覚えています。
当時、「優美」「無邪気」と云う言葉を使う機会が私の生活圏には全く無く、漢字を見た事すら無かった事も原因の一つだと思いますが、これらの楽曲を学ぶ年齢と国語力やあらゆる経験とを総合的に判断して、小学校低学年の児童の理解力と釣り合いが取れていないのではないかと考えます。
私がツェルニーは小学生には最良の教材だと当時も現時点でも考える一つの理由がこの「タイトル」に起因しております。
私自身、国語が苦手な子どもだったのも一つの原因かもしれません。
実際、ブルグミュラーのタイトルについては親や先生に何度も言葉の意味を質問した記憶が有ります。
実質、国語の時間だと捉えて差し支えない状態でした。
「スティリアの女」については、当時ミステリアスな妖しい女性を想像しておりましたし、今考えるとツェルニー100番練習曲に取り組んでいる年齢層の子どもにはタイトルの言葉の意味を理解する事が難し過ぎます。
今は様々な教本が普及し、ブルグミュラー25の練習曲のタイトルの和訳も僅かながら変化しているようですが、innocenceの和訳として、「純粋」と云う日本語の単語を充てると子どもにも解り易いのではないかと思います。
ちなみに、"innocence"の意味の中に「無罪」と云うニュアンスも有ります。
当時の私は無罪だったようです。
ほとんど廃棄処分してしまった楽譜の中で保管してあった貴重な当時の楽譜を見ると、日付が具体的に記載してある事に非常に有難さを感じます。
それにしても…子ども時代このような楽曲を練習していながら、今ショパン Etude Op.10-4に難儀しているのは単なる怠慢だとしか思えなくなりました。
冬場で手が冷たい等と嘆いていられません。
丁度今、ブルグミュラー25の練習曲「5番」ではなく、「ショパン Etude Op.10-5」を練習しており、「5番」について思い出す事が多いのですが、標準的な小学生はブルグミュラー25の練習曲「5番」を課される頃、「無邪気」の意味が理解出来るものなのでしょうか。
無邪気な子どもにはブルグミュラーの「無邪気」は難しすぎる曲だと思います。
「無邪気」が難なく弾けるようになった頃、人は無邪気ではなくなるのかもしれません。