先日、ピアノのレッスンにて指練習のハノンの楽譜冊子を持ち込んだ際、先生から「綺麗ですね」と言われました。

 音色が綺麗な訳では無く、教本が新品の状態からあまり変化が見られないと云う意味合いでの言葉です。

 

 音大卒の先生ですので、当然ご自身も以前ハノンをはじめとした様々な教本を学ばれたようで、お持ちの楽譜の外観を一瞥しただけで数え切れない程譜面を攫ったのが察知出来ます。

 私がレッスンに持ち込んだハノンの教本は、小学校3年生頃から趣味の習い事として取り組み始め、中学卒業まで毎日欠かさず練習し、当時のレッスンにも毎回持ち込んでおりました。

 当然ですが、レッスンに持参する事を忘れた事は一度も有りません。

 小学生の頃は、朝から登校前に毎日練習し、帰宅後も練習しておりましたし、帰省した際には帰省先まで楽譜を持ち込んで帰省先に在るピアノで練習する程でした。

 家族旅行に出かける日も、出発前、朝から練習しておりました。

 

 更に、大人になってピアノを再開してからも毎日欠かさずハノンに取り組んでおります。

 その外観は、新品の状態の冊子とは異なり、使い込んだ状態だと私は思っていました。

 

 しかし、先生のお持ちの様々な楽譜の冊子は、私のそれとは比較にならないほど生活の一部となっていた事が感じ取れる次元で、「汚くてお恥ずかしいのですが」と前置きをしながら音高・音大時代の事を仄めかす事を仰るのです。

 

 私が格別物の取り扱いに於いて丁寧な訳では有りません。

 教本の状態から、先生がどれ程これまでの人生に於いてピアノと向き合ってこられたか、私の綺麗なハノンの教本の状態と見比べるとその差は歴然としておりました

 

 この件は氷山の一角に過ぎないと私は捉えております。

 音高に進学し、音大のピアノ科に進学し、卒業した事。これは、その分野を専攻したと云う意味です。

 

 私自身は普通科の高校に進学し、大学は音楽とは全く無関係な分野の学部を選び入学し、専攻した分野が有ります。

 その分野について思いを馳せてみましたが、30代の今でもずっと当時の教科書やノート、プリント類を保管しており、必要に応じて確認し直す事も有ります

 今現在、学生時代から転居を数回繰り返した場所に居住しておりますが、やはり学生時代の専門書やノートは転居しても廃棄せずに転居先に置いております。たった今、手を伸ばせば物理的に届く距離に専門分野の教科書の一部が有りますが、その教科書はピアノの先生のお持ちの楽譜の冊子と同程度に表紙や中身の状態が劣化しており、至る処に書き込みが散見されます

 

 どの程度であれ、義務教育以降の課程に於いて、その分野に進み、結果的に学位なり修士なり取得したと云う事は、中身が伴っているのは勿論ですが、それだけその分野と向き合った時間が存在したと云う事だと思います。

 そして、紙媒体が主体であった時代に於いては、その時間とほぼ比例して、教本やテキスト、ノート等も持ち運びやページを手繰る事を繰り返すうちに物理的な劣化が伴うのではないでしょうか。

 

 また、自分の進む道として定めた場合、高等教育(大学)で学んだ内容には、様々な想いが有り、そう容易く自分自身の使い込んだ教材を廃棄する事は躊躇われる為、保管しておく事が多いと思います。

 私の学生時代、在学中の居住地から離れた地に学部卒で就職予定の或る同級生が、卒業間際に「今から引っ越しの準備する予定だけど、本とか捨てるのが沢山有る」と発言した際、その場に居た別の同級生が「え?教科書とかの勉強道具をあっさり捨てるの?信じられない」と発言し、私も同様に「勉強道具を捨てるって…どういうつもり…?」と呟いた記憶が有ります。

 最初に発言した同級生は、勉強道具は捨てる訳ないよ。さすがに取っておく。就職してからも見直すだろうしね。ほら、ファッション誌とか、そういうの、処分しないと。要らないし」と返答しており、皆それぞれ大学で専門分野として学んだ知識の必要性や愛着を感じている事が実感出来ました。

 

 よく先輩から教科書を引き継ぐ等と云う話を耳にしますが、私の所属していた学部で専門分野として履修する分野に於いてはその現象は全く見られませんでした。

 

 音大の場合、実技がメインとなる事を想定しておりますので、学生時代使用していた楽譜や音大入学に至るまでに使用した教本を虎の子の如く保管しておき、必要に応じて使用すると思います。

 私は、音楽とは全く無関係の道に自ら進みましたので、子ども時代習っていた時の教本のほとんどを廃棄してしまいました。

 毎日欠かさず朝登校前練習していた楽譜の教本を、大学時代、何の躊躇いも無くいとも容易く廃棄したのです。

 自分が専門分野としていた学部で配布されたものはプリント1枚欠かさず保管していたにもかかわらず、です。

 物事への意識の差が物体として可視化されている現象だと思われます。

 

 

 昨年のリッツカールトン東京クラブラウンジ(53F)の様子です。

 アイリッシュハープの生演奏を聴きながらアフタヌーンティーを堪能出来る空間なのですが、ハープ奏者がそこに至るまでにどれ程の訓練を積んできたのか想像すると、私の今のピアノのレッスン内容は勿論、専門分野としてきた事ですら著しく矮小なものに思えてなりません。

 

 

 まだまだ綺麗な私のハノンを見ると、何故ショパン Etude Op.10-4で難儀しているのか、先生の楽譜を一瞥しただけで説明不要だと悟ってしまいました。

 

 

 今年9月頃、私が運指に苦労していた43小節目赤枠で囲んだ部分の指使いですが、ウィーン原典版の楽譜を確認すると、右手は545とオーバーラッピングの手法が取られており、私の思考と一致していた事に今頃気付きました。

 

 

 全音楽譜出版社の楽譜に於いては、同箇所について、45と指番号が振られており、当時はこの運指に非常に疑問を抱いていたのです。

 

 私が所有しているショパンエチュードのウィーン原典版の楽譜は新品と表現しても差し支えない程に綺麗です。

 先日のレッスンにて、「もしこの曲が学校の試験に出たら私は不登校になると思います」と呑気な発言をした程です。

 それ以前に入学試験で弾かれるので心配無用です、と心の中で呟きました。

 先生は笑っていらっしゃいましたが…。

 Op.10-4や私の発言を笑い飛ばせる程の数多くの経験が有ったのだと思われます。

 先生と私とでは、大学生と幼稚園児ほどの差が有るのではなかろうかと認識しております。

 

 その道に進む事やその分野の専攻をする事の意義を痛感した出来事でした。