ピアノを再開して9ヶ月目、毎日ピアノの鍵盤に向かう習慣が付いて丁度3ヶ月が経過した本日、音楽について思う事が有ります。

 

 私の意図する具体的な曲がどのような曲なのか、音源を一切用いず、言語だけで説明しようとした時、的確にその言語が見付からず、歯痒い気分になる事がしばしば有りました。

 当初は、私の語彙力の問題や専門知識の欠如について憂慮しておりましたが、ここ数日、或る特定の曲について言語を用いて表現しようとする事自体がそもそも不可能で、この件についてもっと踏み込んで言及すると、作曲家への冒涜行為にも及ぶのではないかと結論付けました。

 

 本日少し手に取って乱読した本の中に、興味深い描写が幾つか散見されております。

 

 「音楽が表現しようとしているものを言葉で表そうといくら努めてみても、いくらかは正しくとも、同時にいつも何かが欠けている、ということに気付きました」

 (フェリックス・メンデルスゾーン)

 

 「無言歌」の何曲かの意味について尋ねられたときに答えた言葉で、

 「同じ言葉が、異なる人々に対して同じ意味を持つことは、決してない。歌だけが、複数の人々に対して、同じことを語り、同じ感情を喚び起こすことができます」と1842年「マルカンドレ・スーシェイへの手紙」の中で続けています。

 メンデルスゾーンの曲のうちの数曲は、ピアノ学習者の多くの方が嘗て練習した事が有ると思うのですが、かの有名なメンデルスゾーンも、音楽を言葉で以て表現する事の難解さを綴った詞の中に上記のように記しております。

 

 「音楽だけが世界語であり、翻訳される必要がない。そこにおいては魂が魂に働きかける」

 (ヨハン・ゼバスティアン・バッハ)

 

 

 更に、私が最も考えさせられた言葉です。

 

 「音楽家の最大の特権は、聞こえないものを描き得るということである。それに対して、画家は、見えないものを表現することはできない」

 (ジャン・ジャック=ルソー「言語起源論」)

 

 聴覚を通して情景を思い浮かべる事が出来る事が多いように、映像を以てして表現しなくとも、音だけで視覚を含めた懐かしい記憶や、未知の情景を夢想させる事が可能なのでしょう。

 芸術としての非言語表現の中でも、音楽と絵画と舞踊とでは特性が異なり、或る特定の曲について他者へ言語を用いて正確に伝達する事はほぼ不可能なのではないかと思います。

 視覚と言語とを用いる事の無い世界は独特で、五感の中で欠損した部分を補うべく自然と感性が働くのが不思議です。

 

 ショパンのエチュードよりもノクターンを弾いている時の方が内面が露わになると感じるのは、エチュードが練習曲として定義されており、ノクターンは楽曲作品として作られたからなのかもしれません。

 今の私には、メッセージ性よりも技巧的な粗が浮き彫りになっている状態なので、表現以前の問題を克服するところから日々練習に励みたいと思います。

 

 近々、ピアノの発表会が開催されるらしいのですが、出場する場合、演奏の拙さを衣装の煌びやかさで以て補う事の無いよう努々忘れてはならないと思います。