早いもので2020年も10月に入り、今夜は中秋の名月です。
神々しく輝く月を眺めながら、子どもの頃のピアノの発表会の親子連弾の事に思いを馳せております。
ピアノを習っていた方々は、発表会の思い出が少なからず有ると思います。
フィギュアスケートと同じく、自分と云うたった1人だけでステージの上でピアノと云う楽器を演奏する事、その演奏の為に数ヶ月間練習を重ねてきた事、先生から頂いた曲への想い、様々な想いが有ると思います。
本番の出来がどうあれ、幾ら小規模なステージであれ、幼稚園児でも小学校低学年の児童でもステージの上では「たった1人」で演奏したと思いますし、発表会本番では「弾き直し」が不可能ですから、本番の為に本気の練習で挑んだと思います。
また、1人で演奏するプログラムの他に、親子連弾を経験した方も少なからず居るのではないでしょうか。
両親のうちどちらかが昔ピアノを習っていて弾けた場合、子どもの頃の発表会では親子連弾を経験する傾向に有ると思います。
私もそのうちの一人で、母が昔ピアノを習っており、小学校1年生の頃、母と親子連弾を経験しました。
当時、私の手はまだオクターブが届く大きさに達しておらず、母がオクターブをきちんと掴みながら弾いているのを間近で見て音を聴いていると、単音に比べてとても豪華な音であるように感じ、オクターブが届くようになれば演奏の幅が広がり、練習すれば弾ける曲も豊富に存在する事を認識しましたし、オクターブが届くまでは絶対にピアノを続けようと思うきっかけの一つとなりました。
そのうち、母よりピアノが上手くなりたいと云う想いにも繋がっていきました。
ピアノを練習しない事にはピアノが上手くなる事はまず無いと云う事実を子どもが理解するには、プロの演奏をモニター越しに視聴する事や模範のCDを何度も聴く事よりも、自分のごく身近に存在し、同居して生活を共にしている親と云う存在がピアノを練習して日に日に上達していくのを目の当たりにした方が効果的だと今になって思います。
百聞は一見に如かずとはまさにこの事だと実感しました。
私がピアノに関して言えば親から練習するよう指示されなくとも自分から練習に取り組んだ理由の一つとして、この小学校1年生の頃の親子連弾の練習の経験が挙げられると思います。
母も当然譜読みから始めておりましたし、小学校1年生の頃の私より遥かに「上手」だと思っていた母ですら、初見ではほとんど弾けず私の「完成した楽曲」よりも出来が悪いように思えました。しかし、母が練習すれば私より上手に弾けるようになる、と云う過程をごく身近な例として見ながら、ピアノ曲の完成までのおおよその過程を掴む事が出来た気がするのです。
更に、個々の練習とは別に、連弾となると親子2人で合わせる事が必須ですから、息が合わずに初期の頃は楽曲として成立しない事が有ります。
自分だけが上手くいけば構わないと云う訳では無く、拍の取り方を2人で完璧に合わせるのは意外に困難である事や、どちらか一方がミスをすれば2人とももう一度やり直さなければならず、「自分一人の失敗」では済まされない事ですので、確実性を高める事の大切さも実感しました。
練習の段階ではお互いミスタッチや音抜け、強弱の方向性の違いが目立ち、「お互い様」と云う感じで、どちらか一方を責めると云う事が無かった気がします。
もしかしたら、ピアノの先生が私と母のおおよその実力や練習環境etc.を考慮して完成までの進捗状況に関して調和が取れるよう選曲して下さったのかもしれません。
「すべてあなたの思い通りに なるなんて思わないでよ」
(Fantasyが始まる/モーニング娘。)
この歌詞の通り、「ピアノ曲の完成までの道のりは他人の思い通りにはならない」と云う事をお互いに否が応でも認識せざるを得なくなった気がします。
言葉を用いて第三者から説得されるより、この経験がその後の私と母とのピアノに関する取り組み方を形成したのでは無いか、と今更ながらに思っております。
故に、その発表会後、私が1人でピアノを練習している時に上手く出来なかった時にも、連弾の個別練習の時に母も最初は上手く出来ない事を数年振りに痛感したようで、仕上がりについてほぼ理不尽な叱責を受けた事が有りません。
また、親子連弾を経験して、もう一点思わぬ副産物が有りました。
ピアノの発表会の後は通常参加者全員で集合写真撮影を実施すると思うのですが、その時、被写体となるのは「ステージ上で演奏した方々全員」です。他の生徒達の保護者の方々のほとんどは、親子連弾の演奏をしておりませんでしたので、被写体として並ぶ側では無く、「傍観者としての保護者」として、私達「演奏を終えた生徒全員や講師」を「見る側」でした。
私の母は、「見る側」では無く、「写真撮影の被写体となる側」におり、この二者間には大きな壁が存在するように思えてならず、「私は他のほとんどの生徒とは異なり、ピアノを弾ける親の子どもである」事を視覚とその時の雰囲気により子ども心ながらに実感し、誇らしい気分になったのと同時に、私は他の生徒達より上達する気がすると云う自信も付きました。
この自信について、当時は全く根拠の無い単なる思い込みだったのかもしれませんが、子どもの頃、特に小学校1年生の頃は「出来る気がする」と云う予感を持つ事も大切で、実際にこの経験から小学校低学年のうちは特に劣等感を抱く事無くピアノに積極的に取り組む事が出来たのだと思います。
「一番目立った格好で歩く 一番ビビッドな道を」
(Fantasyが始まる/モーニング娘。)
この歌詞のように、他の「傍観者」の保護者の方々では無く、私の母は真面目に練習をしてピアノが弾ける「参加者」の中におり、私より上手く弾ける、それだけで今夜の中秋の名月のように輝いて見えましたし、当時の保護者の方々の中でピアノが弾けるのは少数派でしたから、子ども達に混じって写真撮影の「被写体」となっていた母は目立っている気がしました。
あの親子連弾の練習は一家で笑いが沸き起こりながら取り組んでおり、今思い出しても楽しい練習でした。
自宅にピアノが1台しか無かったので、各自の練習の際、ピアノの取り合いになっていた事も良い思い出です。
父はと云えば、ほぼ仕上がりかけている連弾の練習風景をビデオ撮影(? 機材について明るくないもので、よく判りませんが、当時スマートフォンが存在しなかったので、何らかの撮影機器を用意してきておりました)に専念しており、動画の再生をして私たち母娘に観せ、演奏の完成度の客観性を高める事に貢献しており、家族が一丸となって仕上げた良き思い出の1曲です。
明日の午前6時06分、牡羊座の満月です。
独りでの演奏も良いですが、また連弾をするのも良いかもしれないと子どもの頃の親子連弾に思いを馳せながら、良きご縁が有るよう願う夜でした。