わたしたちは関心を向けることで


対象を実在させる


N・ウォルシュ 「神との対話」シリーズ 365日の言葉より




実は私、「神との対話」シリーズを読んで


人生観がずいぶん変わったのですが


この言葉もかなり深く残ってます。


この言葉の前後は


人生においていろんな苦難があることを


どう対処すればよいか


他人よりも不幸な境遇なのはなぜか


などの思考が生まれてくる


メカニズムについて語られていたと思います。



生きていて


思い通りになることなんて


そう多くはないと思うのですが


それをつらいと思うか


流してしまうか


ということに対しての言葉です。



つまり


辛いことも悲しいことも


自分が「そういう出来事がある」と認識してしまうから


ということですね。



たとえば


イジメを例にあげると


実際に私の知ってる人の話ですが


ある日、靴に画鋲が入っていたというのです。


彼女の友人の靴に一つか二つ。


彼女の靴に10個くらい。


彼女は友達がいじめられてると思ったというのです。


仲よくしてるから自分の靴にもおまけみたいに入れられたと。


ちょっと笑い話みたいなんですけど


はたから見ると明らかにターゲットは彼女。


けれども


彼女はそういう発想なので


それをつらいとか悔しいとか悲しいとか


そんな風には感じなかったそう。


彼女にはそこに自分に対するイジメを認識しなかったんです。


振り返ってみると


あれはイジメだったのかな?


くらいの感覚だそうで。


そこに関心がなかったから


イジメは実在しなかったわけです。




ちょっと発想を変えてみると


そういうことって身の回りでも頻繁にあるんですよね。



自分の好きなもの。


やたらと目につきませんか?



関心のない人なら見過ごしてしまうような


視界の隅の点でも小さな音でも


敏感に気付いたりする


そんな経験はおそらく誰もがしてると思います。



それらは関心のない人には素通りしてしまうもの、つまりその人の中には実在しないものですよね。



逆に関心があればそれは確かにそこにあるものになるんです。


面白いですね。



同様に身の回りに起こる


不愉快なことも関心をよせなければ


素通りしていくものです。


相手がいて明らかに攻撃してくるような場合は


簡単に素通りしてくれませんが


それでも、かするくらいで過ぎてしまうものではないでしょうか。


少なくとも私はそうです。




この言葉が気になった方、


関心を向けたり向けなかったり・・・


ぜひ意識してみてください^^        名前