死後の世界
生物は単細胞から徐々に複雑になり、動物、人に変化し、そして植物にもなり、変化し、花を咲かせるようにもなった。その変化は自然のはたらきである。霊があるというなら、どの変化の時点で発生し始めたのか、個々の霊はいつ消滅するのか、それとも霊は消滅しないのか。単細胞のばい菌にも、エイズ菌にも植物にも死後の世界はあるのか。人だけに死後の世界があるというのか、又は一部の人だけにあるというのか。単純すぎるが、この世を自己と自己以外の世界に分け、我の意識を強くしてしまってから、死の後、そのような我をどう処理すべきか分からなくなり、エゴが死後の世界をあみだしたにすぎないのではないか。そもそもこの世界から己を分離したのが間違いではないか。己は、この世界と一体である。身体はこの世の物質でできている。己はこの世の物質に依存している。
死後、存在し続ける霊があるとすれば、時間を超えた永遠の有か。
しかし、この世に有は存在できない。逆に有とは永遠の反対の極である。有という意識は静止・変化しない状態である。時間が停止した状態である。そんな状態はこの世に存在しない。すでに古代に、ブッダは、この世のあらゆるものは、常に変化していると言い切った。この世は生であり全て動いている。静止し死んだ有などありえない。ブッダは、思考上からではなく、全ての人の眼前で起こっているこの現実を見てそう言われた。物理学・医学等の科学は、その動(生)の因果を学ぶもの。この世は生きた動(無)であり、死んだ静(有)など空想でしかない。色即是空、空即是色、空だから永遠に存在し続き、有なら一瞬に死す。
この世と一体である己にとって、生は動の因果であり、一時であり、今だけである。だからいとおしい。この世の全ては変化するものであり、よって空であり、一時の流れゆく色である。それは自分だけでなく、全ての生物・物質いや星までがそうである。
長くいきられるもの、楽にいきられるもの、生きるに重い荷を負うもの。
自分だけ生き延びたいか、ほかのものを押しのけ、殺し、いきのびたいか。
皆生きたいのだ
そして、死とは、次の生き物に生の席をゆずるものである。
他のものの死後、そのものを弔うのは、一時であった生を悲しみ、いとおしむものである。