ある日、突然、気が付いちゃった

 

私って、「反応しかしてないじゃん」

 

嬉しいことがあれば喜ぶ、

悲しいことがあれば泣く

 

これは当たり前のことだと思ってた

ずーっと、思ってた

 

けれど、これって本当にそうかな、これでいいのかな

 

天気が良ければ嬉しくて、雨がふったらブルーな気持ち

人に褒められれば嬉しくて、注意されたらイヤな気持ち

売上が上がれば嬉しくて、お客様の少ない日は真っ暗な気持ち

 

夏は暑くて、冬は寒い 

 

ただただ

「外からの刺激に反応しているだけ」

ということに気が付いた

 

若い頃はこれでもまだ大丈夫だったと思う

「自分自身」をもっと持っていたから

他人に左右されないものがあった

 

けれど、だんだん自分というものが見えなくなってきた

他人の目や、おきる事柄に、一喜一憂しかしていないことに気が付いた

 

信念というものがあったなら、もう少し違ったのかもしれない

 

そんなことを考えながら、ふらりと入った本屋さんで手にした本は

「7つの習慣」

 

 

パラパラとめくって開いたら

こんな一節に出会った

第二次世界大戦時にナチスドイツの強制収容所に送られたユダヤ人精神科医のヴィクトール・フランクルの事例。

ある日のこと、フランクルは裸にされ、小さな独房に入れられた。ここで彼は、ナチスの兵士たちもけっして奪うことのできない自由を発見する。たしかに収容所の看守たちはフランクルが身を置く環境を支配し、彼の身体をどうにもできた。しかしフランクル自身は、どのような目にあっても、自分の状況を観察者として見ることができたのだ。彼のアイデンティティは少しも傷ついていなかった。何が起ころうとも、それが自分に与える影響を自分自身の中で選択することができたのだ。自分の身に起こること、すなわち受ける刺激と、それに対する反応との間には、反応を選択する自由もしくは能力があった。

収容の中で、フランクルはほかの状況を思い描いていた。たとえば、収容所から解放され大学で講義している場面だ。拷問を受けている最中に学んだ教訓を学生たちに話している自分の姿を想像した。
看守たちには行動の自由があったし、自由に選べる選択肢もはるかに多かった。しかしフランクルが持つに至った自由は彼らの自由よりも大きかったのだ。
それは彼の内面にある能力、すなわち反応を選択する自由である。
彼は他の収容者たちに希望を与えた。看守の中にさえ、彼に感化された者もいた。

彼がいたから、人々は苦難の中で生きる意味を見出し、収容所という極端な環境にあっても尊厳を保つことができたのである。

 

また、7つの習慣では、こんなことも言っている

 

主体的な人は自分の中に自分の天気を持っている。雨が降ろうが陽が照ろうが関係ない。自分の価値観に基づいて行動している。

 

反応的にならないことは、自分自身であるということとイコール

 

すでに他界しているけど、お父さんがそういう人だった

そして大きな志に基づいた人生を送っていたのを知っている

 

私も自分で築く人生を生きたい