2023年の10月頃に、Yさんという母方の祖母の妹の旦那さんが亡くなって、その通夜に参加したのですが、喪服着て、遺族に丁寧な挨拶を心がけて、椅子に座ってお坊さんのお経が終わると私たちは帰る予定でした。帰ろうとしたら、Yさんたちに呼び止められて、「たくさんの食べ物とかビール用意してあります。食べてください」と言われ、遠慮し過ぎたら失礼かなと思ったので、大量の寿司や瓶ビールを食べる事になりました。
遺族の方が「ビール飲む?」と言ったら「あっ お願いします。ありがとうございます」と言ったら、遺族の方がグラス用意してくれて、お酌をしてくれました。
自分は寿司は大好きなので、家族で回転寿司に行くと、私個人で食べると、30皿くらい食べます。
流石に30貫食べるのは失礼だなと思って、7貫くらい食べた所でストップすると、「ジョウジ君もっと食べてほしい。私たちの年齢じゃこんな量食べられないし、若いから遠慮なく満足するまで食べてほしい」と言われて
15~20貫食べて、150mlのグラスビールも2~3杯くらい飲みました。
その間に人生相談にも乗ってくれて、適応障害の私にとって凄い助かる意見を貰いました。
通夜の席は、重苦しい空気ではなく、温かな交流の場となっていました。思いがけない心遣いに触れながら、いつの間にか緊張もほどけ、心の奥に残っていた孤独や不安も、少しずつ溶けていくのを感じました。寿司やビールを囲んで笑顔が生まれ、世代や立場を超えて、みんなが互いを思いやるひとときを過ごしたのです。
人生相談を受けているとき、普段は言葉にできない悩みや気持ちも自然と口にできました。遺族の方々は、決して押しつけることなく、静かに耳を傾け、温かな助言をくれました。その包容力に触れ、自分ひとりだけで苦しむことはないのだと、改めて気づかされたのです。
こうした経験は、悲しみの中にも人の優しさや絆を見出す機会となり、生きる道を見失いかけた自分をそっと支えてくれる大切な瞬間となりました。人が集い、心を通わせることで、どんな困難も乗り越えていけるのだと実感し、これからも自分らしく歩んでいこうと、静かに決意を新たにした夜でした。
その後帰る前に、山本さんの旦那さんの亡骸に対して、密教のお経を唱えて「般若心経」「阿弥陀如来のお経」
という良い来世を祈りながらお経を唱えて、唱え終わると、遺族の方から大きい拍手を貰って、こんなに拍手貰ったのは初めてだったので、お経はこんなに価値のあるものだったのかと分かったと思った瞬間でした。
しかしその数日後に母が宗教団体のMさんに電話している様子を偶然すべて聞いてしまい、「Mysyonoのお経は生意気だし、余計な事をベラベラ言って恥ずかしかった」とか「寿司もバクバク食べて酒もガンガン飲んだりして、遺族に対する礼儀がなってない」などの根も葉もない情報を流されて、あまりにも理不尽な内容に、胸の内がぐっと重くなりました。心からの祈りや誠意が、どうしてこんなふうに誤解され、陰口の材料になってしまうのか。その場の空気を感じて、精一杯の思いやりと敬意を持って振る舞ったつもりだったのに、全てを否定されたような気持ちでした。自分が大切だと信じてきた礼儀や真心が、他人の一言で揺らいでしまうことの苦しさを初めて知りました。
出来るだけ冷静にしたかったけど、無理でした。