えんがわにっき

えんがわにっき

ブログの説明を入力します。

Amebaでブログを始めよう!



お久しぶりです




あの日から3年がたちました。
忘れちゃわないためにも、ここに書こうと思います






2011.3.11
その日私は1人で、仙台駅のUNIQLOにいました。
そしたら突然グラッ

マネキンが倒れてきて、棚が倒れてきて、ビルのガラスが割れて…
そこからは恐怖でしかありませんでした。

母から来た一通のメール
「母は無事です」
それから通信手段が途絶え、母のもとに帰ろうと思いました。

しかし電車、バスはもちろん止まっており
家まで歩いて帰りました。
よりによって吹雪。
道は家まで歩いて帰る人の行列でした。

帰り道、様変わりしたいつもの道に驚きながらも、まだ現実と夢の区別がついていなかったように思えます。


家につき、扉を開けるとそこは
自分の家とはわからないほどに物が散乱し、すべて倒れていました。
その光景は今でも目に焼き付いています。

入ったのはいいが、何をしたらいいのかわからず母が帰ってくるまで部屋の片隅で座り込んで待っていました。
母が帰って来た時は本当に無事でよかった、と思ったのと
これは現実に起きていることなんだなと
知った瞬間でした。

電気もガスも水道も止まってしまったので
その日の夕飯はお家にあったレトルトの冷たいおかゆを食べました。
夜はロウソクに火をともし、ダウンを着て使えない携帯を握りしめて何度もネットにつなごうとしたりメールを送ろうとしたりしていました。

翌朝からはスーパーやコンビニに並んで食糧の調達に走り回り、水をくみに行ったり、割れた食器の後片付けをしたりして、ガス電気水道が使える日を待ちました。

公衆電話が使えるようになった日はすぐ東京にいた父と姉に電話をかけ、こっちは無事と伝えると大泣きした姉の声が聞こえ
ことの深刻さを知りました。

電気が通り、テレビがついた日はかじりつくように見入り、映画でもみているような光景が近くで起きていたことに驚きと恐怖でいっぱいになりました。

うちはありがたいことに津波の影響はなく、地震だけだったので家は半壊ですみましたが、海沿いの友だちや親戚の安否が心配になりました。
メールが使えるようになってすぐ、卒業したばかりの高校からクラスメールが回ってきてクラス全員の安否が確認された時はホッとしました。
だんだん連絡が回るようになって、嬉しいニュースや悲しいニュースが回ってきて複雑な気持ちでした。メールを開くのが怖かったんです。誰か死んでしまったのではないかと悪いほうに考える自分がいました。





家を直し終わらないうちに、私は東京に来ました。大学生になるからです。
仙台から逃げてきたようで、すごく心苦しくもあったのですがどこかで仕方ないと思っていたのだと思います。


こっちに来てからは震災などなかったかのように過ごし、あの日のことを思い出す日も徐々に減っている自分がいました。

遠くに来ているからこそ、忘れてはいけない。忘れられないものだってあるのだから、伝えていかなければいけないのかなって思います。





長くなりましたが、
ここに書いたのはほんの一部です。
すべてなど書ききれません。
それに私は全然ましな被災者です。
もっともっと苦しんだ方がいること、今も苦しんでいる方がいること忘れないでいたい。


この事実、忘れないで