あずき年代記

あずき年代記

ブログの恥はかき捨てかな…
かき捨てのライフワークがあってもよろしからむ…

文章だけのブログ。
広義の私小説かな?
あまりパーソナルなことはかかないだろうが。


テレビの草創期から日本テレビのプロデューサーとして数々の名番組を世に送りだした井原高忠さん。


井原さんのメインテーマは、手間ひまかけたアメリカのショウ番組を日本でもやってみたいというもの。


24時間テレビもそのひとつ。


アメリカの全国ネットで、テレソンというチャリティ番組があった。24時間放映。MCは、50年代にディーン・マーティンとのコンビで人気を博したコメディアンあるいはヴォードビリアンのジェリー・ルイス。日本でも人気があり、萩本欽一・加藤茶・志村けんに影響を与えた。


24時間テレビを企画したとき、MCは萩本さんしか

考えられなかったと井原さんは語っていた。


井原さんはいう。


ただネックがあってね。ていうのは欽ちゃんはラジオでもチャリティやってたんだよ。だから欽ちゃんにお願いに行っても、ラジオとテレビでふたつチャリティやるのはムリですって断られちゃった。でも、嫌だ、やりたくないとは言わなかった。そうなると俄然ぼくは粘るんだよ。


つまり井原さんは脈があると見ていた。

なぜか?


わたしの記憶によれば、萩本さんは1回めの24時間テレビの前年、1977年にフジテレビの全番組をジャックしたことがあった。朝のニュース番組から夜のプロ野球ニュースまで全部出演したのである。


大学から帰ってきたわたしは、フジテレビをつけた。

宵の7時半。

番組「怪人二十面相」。

萩本さんはオープニングに現れた。

黒のシルクハットに黒マントすがた。

二十面相ふうに高笑い。

萩本さんの声は甲高いからこれだけでも微妙に可笑しい。カメラが寄ると、萩本さんは、

「恥ずかしいから早くドラマはじめて…」

とつぶやく。

8時からは、たしか、「銭形平次」。

萩本さんはそそっかしい町人かなにかの役で、端役。

想定内だった。

これ以上観るのはやめた。


このころの萩本さんの代名詞は、ミスターテレビ。


テレビ朝日に寝泊まりしていたこともある。

作・演出・主演を萩本さんに丸投げしたが、萩本さんはテレビ朝日でバラエティをつくるイメージが湧かない。そこで引き受ける条件としてテレ朝に住まわせてくれという希望を出し、テレ朝サイドは受容れた。


萩本さんが寝泊まりしたのは楽屋ではなかったとおもう。スタジオの一隅である。衝立の向こう側にマットと布団が敷いてあり、他局の仕事を終えた萩本さんは、パジャマに着替え布団に潜りこむ。これは紹介映像で観たのだが、萩本さんは宣伝番組としてテレ朝に住む萩本欽一の日常をも半ばレギュラー化したかったようである。さすがにこれは実現しなかったが。


だが70年代後半に、90年代の「電波少年」の先取りをしていた萩本さんの発想力は他のタレントたちを超越していた。


井原さんはこうした萩本さんを日本テレビのプロデューサーとして観察していたから24時間テレビの司会を萩本さんなら最終的には引き受けると見越していたのだろう。


つまり、チャリティはあくまで大義名分または美名であり、井原さんと萩本さんはテレビにしかできない実験をやってみたかったのだ。


ただ、おなじ番組は2度やらないをポリシーとしていた井原さんは1年でやめるつもりでいた。


「来年もやります!」

とフィナーレで叫んでしまったのは、萩本さん・大竹しのぶさんと一緒に壇上に立った当時の日本テレビの社長と、小林信彦さんは「テレビの黄金時代」(文春文庫)に記していた。


元祖テレビ屋を自称する井原高忠さんが日本テレビを退職したのはこの2年後くらいだとおもう。


フリーの演出家として舞台・テレビの仕事をしていた。そのなかには新宿シアター・アプルで上演した草笛光子さん、植木等さんがメインのミュージカル「シカゴ」もあれば赤坂にあったレストランシアター「コルドン・ブルー」の仕事もあった。


その後はハワイ、つぎにアメリカのアトランタに住んで生涯を終えた。日本テレビに残っていれば社長になる目があったひとだが、社内政治とは距離を置いていた。この点は、フジテレビのディレクターから出発したすぎやまこういちさんと似通うところがある。要は職人気質である。すぎやまさんはリアルポリティクスになまなましく関わるようになったが。


24時間テレビ=偽善と、わたしとその仲間たちは第一回から非難していた。


著名人では、ブレイクしたばかりのたけしさんが急先鋒。


媒体は、いまはない雑誌「広告批評」でである。まだ人気の高かったB&Bが総合MCになった年で、チャリティなのに、吉本興行と日本テレビがB &Bのギャラを巡って揉めていると暴露していた。


タレントがマラソンする様子は画になると皇居一周マラソンを深夜番組として最初に企画したのも、萩本さん。わたしはその番組を観ていないが、小林信彦さんが萩本欽一さんをモデルにした短篇「踊る男」に、詳細が描かれている。


日本テレビは、上皇夫妻のご成婚パレード、箱根駅伝と中継のノウハウを蓄積している。


箱根駅伝を取材した友人によれば、


「あの番組はアナウンサーたちもよく勉強しててね。巨人戦よりよほど本気だよ」


と笑っていた。


こうして振り返ってゆくと、60年代に較べて万事貧弱に見えた70年代でも、不況なりに新しいものをつくろとする意欲と体力が残されていたことがわかる。


24時間テレビに限らず、テレビは惨状を呈している。

YouTubeといわれてもジャンクフード感を拭えない。

だから滅多に観ない。

どちらも観ない。

本と、舞台だけが残った。