最近のテーマは、鬱と宗教。

近所の友人Aの彼女は鬱病らしく、色々と大変な状況のAが言っていた。

求めるものが高く、それに見合った努力ができていないと自分を責めるタイプの鬱は、身の程知らずだ、と。
自分の力量をわかっておらず、自分はもっとできると思うなんて傲慢だ、と。
たしかに。
理解できる。
理想を抱くのは大事だけど、自分に成し遂げられないくらいの理想を抱くのは、驕りから来るのかもしれない。
私もそうかもしれない。

このまま一人で過ごしていくと鬱になる可能性があると感じてから、どこかに焦りがある。
このままではいけない。
生き方の方向性を考えないと、誰か、恋人でも見合い相手でも親でもいいから、誰か側にいて一緒に生きられる人を見つけないと、という焦り。


そして、宗教。
私はおそらく絶対何かの宗教に入ったりはしないと思う。
けれど最近、日本で信者の数がとても多い、とある宗教と、関わる機会が3度重なった。
そして、宗教について考えさせられた。
何か宗教を信じられたら、それってとても幸福なことだ、というのは、以前から私の持論だった。
身近な人の死や、自分の死、生きていく上での苦しみにも、救いや答えのようなものを持てるだろうと思うから。
私には信じられないけど、信じられる人は幸せだな、羨ましいな、と思っていた。
だから、鬱になる人がいたら、宗教でも入ってみたらいい。きっと温かく迎え入れてくれるコミュニティもあるし、信仰が救いにもなるのだろうから、と思っていた。
でも、その考えに変わりはないが、実際に信者の人を見知ってからは、何か共通する危うさのようなものを感じてしまった。
何というのかな、信仰を第一に考えるが故に、身近な人を思いやる気持ちが疎かになってしまっているような。
人として、あなたという人として、そこは大切にしなくていいのですか?と問いたくなるような。
お経を読む時間で、もっとすべき事があるのでは?と指摘したくなるような。
そんな、人としての危うさを感じた。
まあ鬱で苦しみ続けるよりは、いいのかもしれないけど。


と言うわけで、宗教に頼らず、鬱になることを回避し、ポジティブに生きていきたいね。