一、 滋野氏のルーツ

(一) 奈良時代の海野郷

 奈良の正倉院には、今から1,270年前に信濃の海野郷から牛か馬の背によって、はるばる奈良の都へ運ばれ、そして宮中で、きらびやかな調度品として、その責務を果たしたものが残っている。
 正倉院は、光明皇太后が聖武天皇追善のために、東大寺に献上された無数の宝物を収めた庫である。その宝物は武器・楽器・遊具・服飾・調度品・文具等で、日本が世界に誇る宝物庫であることは良く知られている。

正倉院

この正倉院の御物の中に、海野郷から運ばれた貢物の袋の口を絞った紐に「信濃国小県郡(ちいさがたぐん)海野(うんの)(ごう)戸主(へぬし)爪工部(はたくみべ)(きみ)調(のちょう)」と墨書された麻織物の(ひも)(しん)が残されている。これには年号はないが織り方や墨書の形式から推定すると奈良時代の天平年代(729~741)の貢物であろうと言われている。

正倉院の墨書

 このころ小県郡に、海野郷という集落があって、爪工部という人がいて、高貴な人が使う「紫の衣笠(きぬがさ)」や「(さしば)」などを、造れる高度な技術者集団がいて、かなり地位の高い姓を賜っていた人々が、この地に住んでいたことが、立証される資料である。どうして、このような職業・身分の人たちが、こんな僻地で、しかも都から遠い地に定住していたのだろうか。

国郡郷

 

戸 主

古代日本の行政組織で、それより前は「国評(郡)里」

または「国郡郷里」制

里に変わって新しく出来た郷の中に50戸が集まった戸の主

爪工部

衣笠(きぬがさ)をつくる職を持って宮中に奉仕した人々を言う

 

君という敬称がつけられていることは、この地方の土豪であった

調

男子に課せられた貢物で、土地の物産を朝廷へ献上すること

 爪工部は「はたくみべ」と読み朝廷に直属する工人で、(さしば)をつくるのを職業とする部民である。翳というのは、貴人の頭上に左右から差出してかざす団扇(うちわ)に長柄をつけたようなものをいう。(有名な高松塚古墳の壁画にこの絵が描かれている)主として鷹の羽でつくったものだが、この海野郷は昔から鷹の産地として有名で、平安時代からこの土豪として有名になった祢津氏は、放鷹の技術をもっては、天下一と称されたくらいである。

 翳                        衣笠

 

 

)

世紀ころ、大和政権は(ちく)()、その勢力を広めるため東山道が拡充されていた。この海野郷周辺には、中曽根親王塚をはじめとする多くの古墳が存在していることからみて、早くから中央の文化がこの地に流れこんでいたことは言うまでもない。

この郷の由緒の古さを暗示するが、さらにもう一つ注目すべき歴史的事実がある。それは今から約1196年前の弘仁14年(823)前後に編纂された「日本国現報善悪霊異記(りょういき)(略して「日本霊異記」という)」に、信濃国の逸話が二つも載せられていることである。一つは跡目(あとめ)の里(上田市川西方面から青木村)と、もう一つは(おうな)の里、すなわち海野郷の説話である。奈良時代の末期の宝亀5年(774)この地に大伴連(おおともむらじ)(おし)(かつ)なるものがおり、法華寺川(金原川の下流)に居所をかまえ、その居館近くに氏寺を、建立していることから相当の勢力者であり、中央に直結する政治・文化の中核的存在であったことを示している。後世に発生した海野氏は、この大伴の系譜をひくものではなかろうかという説もある。

また、当地に「(あがた)」「三分(みやけ)(屯倉(みやけ))」という古代の匂いの濃い地名が数多く残っており、いずれも古代中央の文化が、盛んに押し寄せてきたことを物語っている。しかも、すぐ西方には、信濃国府・信濃国分寺があって、信濃国の政治・文化の中心となっており、それらの文化と共に都から、ここに下たって定住し、かなりの勢力者となったのが海野氏ではなかろうか。    『東信史学会「千曲20号」より』