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今回は、以前書いたと勘違いしていて放置していた作品で、「座頭市」の女性版を描いた作品です。
原作は言わずと知れた、子母沢 寛で、以前書いた1984年度版の勝 新太郎の「座頭市」(これを書いたので、勘違いしました)が、最後の作品だと思われましたが、2003年にビートたけしが、新しい解釈として「座頭市」を作品化しました。(なんでも、最後の座頭市として、香取慎吾が撮ってるとか噂が有ります)

しかし、ビートたけしの作品は娯楽作品として、観客に目をむけていると言うより、何故かヨーロッパで、映画の神様などと、理解に苦しむ呼ばれ方をし始めた為の、評論家に向けての作品に感じました。
斬り合いのシーンで使用されたCGなどは、見応えは有りましたが、ゲタップや農民の鍬(くわ)入れシーンでの、音楽との同調とか、評論家相手の”俺やるだろ感”が、ヒシヒシ伝わって来ました。
今回の「ICHI」は、あくまでも娯楽の為の作品で、「あずみ」に似た感覚の作品と言った方が、近いかも知れません。
監督は「ピンポン」で、独自の世界感を築いた、曽利文彦で、CGの使い方がやり過ぎない程度に、取り入れるやり方は「ピンポン」同様に、ピリッと刺激させます。
主演は綾瀬はるかで、私的には「ホタルノヒカリ」でのおバカ演技ぶりが、何故かつぼにハマった記憶が有ります。
彼女は、この「ICHI」の主演により、2008年度日刊スポーツ映画大賞主演女優賞を授賞しています。
出演は綾瀬はるかの他、今や「仁/JIN」でも、綾瀬はるかと共演している大沢たかお、この手の作品には持ってこいの演技をする中村獅童、久々に見た感のある窪塚洋介、そして今回も怪演が光る竹内 力が共演しています。
ストーリーは、「座頭市物語」を基に描いているらしく、今回も侍との絡みを幹(脚本の中心)に、1984年の「勝新太郎版」と2003年「ビートたけし版」同様、一つの流れにもなっています。
1960~70年代、香港で「座頭市」が大ヒットし、ブルース・リーまでもが勝新太郎との共演を望んだ程です。(勝はブルース・リーに香港に呼ばれたが、面倒臭いとお付きの俳優、橋本 力を行かせ、「ドラゴン怒りの鉄拳」が完成しました)

香港映画の流れに、復讐と言う芯が存在し、「座頭市」とマカロニ・ウエスタンは、映画作りの絶対的な象徴的な作品として、崇められていました。
確かにマカロニ・ウエスタンのパターンと、「座頭市」のパターンは、非常に良く似ており、主人公は必ず一度捕まり、酷い目に合います。
そのパターンは、今回も生きていて、そこから立ち上がる市の生き様が、凄みを引き立てます。
それに何故「ICHI」なのかは、時代考証や本質性を重要に描いたからではないでしょうか。
女座頭市としてしまうと、座頭とは「盲人の琵琶法師の位で、最下位の者の総称で、遊芸、針、あんまなどを業とし、頭を剃り上げた盲人」と辞書にも載っている通り、主に男を規定しているような設定になる為、瞽女(ごぜ)に変更したのだと思われます。
瞽女(ごぜ)とは、「三味線を弾き、歌をうたい、村を回って歩く盲目の女芸人。室町時代以降に現れ、語り物や俗謡をうたい、集団で各地を遊歴した」とあるように、この作品で、何故、市が一人なのかも描かれています。

本来瞽女は、集団の旅芸人のようなものなのですが、集団社会である為、掟は絶対であり、それを犯した者は追放され、「はなれ瞽女」として、一人で生きて行くしか有りません。
市もそうして、たった一人で生きて行く事を決めます。でも市には目標が有る為、生きていけるのだと言う、心理的な描写と、設定を上手く絡めています。
ストーリー自体は、それ程突飛な部分がない為、大沢たかお演じる十馬(とうま)の、抜刀出来なくなる経緯など、市の生い立ちよりも、ストーリーのエンディングに関わる部分を重視しています。
ただ一つ、物語りから引き戻されたのが、三味線を弾く、綾瀬はるかの指の綺麗さでした。たまに時代劇で、若い俳優の顔のアップで、耳が映った時に、ピアスの穴が見えた場合など、フッと物語りから引き戻される時がありますが、綾瀬はるかの場合、指が綺麗過ぎました。
まあ、私的にはビートたけし版よりは楽しめた作品に仕上がっていました。特に、目的である父親捜しは、四代目「スケバン刑事」で描かれていた、初代が母親だったを、踏襲(とうしゅう)している感が有り、解る者のみへの裏コマンド的に描かれています。
現在放映中の「JIN/仁」で、主演の二人が共演しているのも、何かの縁ですかね。ちなみに、今期のドラマでは、一番楽しみにして見ています。
原作は言わずと知れた、子母沢 寛で、以前書いた1984年度版の勝 新太郎の「座頭市」(これを書いたので、勘違いしました)が、最後の作品だと思われましたが、2003年にビートたけしが、新しい解釈として「座頭市」を作品化しました。(なんでも、最後の座頭市として、香取慎吾が撮ってるとか噂が有ります)

しかし、ビートたけしの作品は娯楽作品として、観客に目をむけていると言うより、何故かヨーロッパで、映画の神様などと、理解に苦しむ呼ばれ方をし始めた為の、評論家に向けての作品に感じました。
斬り合いのシーンで使用されたCGなどは、見応えは有りましたが、ゲタップや農民の鍬(くわ)入れシーンでの、音楽との同調とか、評論家相手の”俺やるだろ感”が、ヒシヒシ伝わって来ました。
今回の「ICHI」は、あくまでも娯楽の為の作品で、「あずみ」に似た感覚の作品と言った方が、近いかも知れません。
監督は「ピンポン」で、独自の世界感を築いた、曽利文彦で、CGの使い方がやり過ぎない程度に、取り入れるやり方は「ピンポン」同様に、ピリッと刺激させます。
主演は綾瀬はるかで、私的には「ホタルノヒカリ」でのおバカ演技ぶりが、何故かつぼにハマった記憶が有ります。
彼女は、この「ICHI」の主演により、2008年度日刊スポーツ映画大賞主演女優賞を授賞しています。
出演は綾瀬はるかの他、今や「仁/JIN」でも、綾瀬はるかと共演している大沢たかお、この手の作品には持ってこいの演技をする中村獅童、久々に見た感のある窪塚洋介、そして今回も怪演が光る竹内 力が共演しています。
ストーリーは、「座頭市物語」を基に描いているらしく、今回も侍との絡みを幹(脚本の中心)に、1984年の「勝新太郎版」と2003年「ビートたけし版」同様、一つの流れにもなっています。
1960~70年代、香港で「座頭市」が大ヒットし、ブルース・リーまでもが勝新太郎との共演を望んだ程です。(勝はブルース・リーに香港に呼ばれたが、面倒臭いとお付きの俳優、橋本 力を行かせ、「ドラゴン怒りの鉄拳」が完成しました)

香港映画の流れに、復讐と言う芯が存在し、「座頭市」とマカロニ・ウエスタンは、映画作りの絶対的な象徴的な作品として、崇められていました。
確かにマカロニ・ウエスタンのパターンと、「座頭市」のパターンは、非常に良く似ており、主人公は必ず一度捕まり、酷い目に合います。
そのパターンは、今回も生きていて、そこから立ち上がる市の生き様が、凄みを引き立てます。
それに何故「ICHI」なのかは、時代考証や本質性を重要に描いたからではないでしょうか。
女座頭市としてしまうと、座頭とは「盲人の琵琶法師の位で、最下位の者の総称で、遊芸、針、あんまなどを業とし、頭を剃り上げた盲人」と辞書にも載っている通り、主に男を規定しているような設定になる為、瞽女(ごぜ)に変更したのだと思われます。
瞽女(ごぜ)とは、「三味線を弾き、歌をうたい、村を回って歩く盲目の女芸人。室町時代以降に現れ、語り物や俗謡をうたい、集団で各地を遊歴した」とあるように、この作品で、何故、市が一人なのかも描かれています。

本来瞽女は、集団の旅芸人のようなものなのですが、集団社会である為、掟は絶対であり、それを犯した者は追放され、「はなれ瞽女」として、一人で生きて行くしか有りません。
市もそうして、たった一人で生きて行く事を決めます。でも市には目標が有る為、生きていけるのだと言う、心理的な描写と、設定を上手く絡めています。
ストーリー自体は、それ程突飛な部分がない為、大沢たかお演じる十馬(とうま)の、抜刀出来なくなる経緯など、市の生い立ちよりも、ストーリーのエンディングに関わる部分を重視しています。
ただ一つ、物語りから引き戻されたのが、三味線を弾く、綾瀬はるかの指の綺麗さでした。たまに時代劇で、若い俳優の顔のアップで、耳が映った時に、ピアスの穴が見えた場合など、フッと物語りから引き戻される時がありますが、綾瀬はるかの場合、指が綺麗過ぎました。
まあ、私的にはビートたけし版よりは楽しめた作品に仕上がっていました。特に、目的である父親捜しは、四代目「スケバン刑事」で描かれていた、初代が母親だったを、踏襲(とうしゅう)している感が有り、解る者のみへの裏コマンド的に描かれています。
現在放映中の「JIN/仁」で、主演の二人が共演しているのも、何かの縁ですかね。ちなみに、今期のドラマでは、一番楽しみにして見ています。