本多忠勝 

徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられる徳川家康の代表的な家臣の一人。名前の由来は徳川家康が付けたもので「ただ勝て」という意味で付けられたらしい…そんな忠勝の魅力は何といってもその圧倒的な強さである。彼はなんと生涯百戦以上の戦いで一度も体に傷を負わなかったのだ。この強さから彼の使った武器である「蜻蛉切」は天下三名槍と呼ばれている。そして織田信長・豊臣秀吉といった名だたる武将たちもこの強さを恐れていたようだ。因みに忠勝は娘が真田家に嫁いだため、真田家との関係も深い。故に関ヶ原の戦いの後、あの家康を脅して真田幸村が処刑されかけてたのを助けたとも言われている。晩年、忠勝は彫刻中に指を切り人生初の傷を負った時、傷を負ったら自分は死ぬかもしれないと語ったらしい。そして、彼は実際にその何日か後にその生涯を終えている。本多忠勝は生来の無傷の武将だったのだろう。

 真田幸村(本名・真田信繁)

幸村という名前が世間ではよく知られているがこれは彼の死後に使われたもので本名は信繁という。真田家の家紋の一つに六文銭というお金の絵が描かれているものがある。六文銭は三途の川を渡る通行代とされていたのでこの家紋は死を恐れない真田家の勇猛さを表しているのだろう。そして、ここから来る勇猛さは徳川家康を追い詰めるまでに至った。

関ヶ原の戦いの前後では、」なんと倍以上の徳川軍に二回も勝利している。ここで活躍した十人の忍者が世にいう真田十勇士である。更に幸村を象徴する戦いである大坂の陣においては大河ドラマのタイトルにもなった要塞である真田丸を用いて家康自身を自害寸前まで追い詰めている。この強さから彼は「日本一の兵」と称されている。結局、幸村はこの戦いで討死したが彼の魅力は後世に語り継がれ彼の武勇伝は小説、講談の話に多く用いられていて今なお多くの人々から愛されている。

 細川忠興

 忠興は若い頃は織田信長に仕ました。彼は死んだ信長の三十三回忌を執り行ったり信長からもらった手紙を家宝にしたりと義理堅い人物です。。その後は豊臣秀吉や徳川家康に仕え数々の戦いに参加しました。そんな忠興ですが、実は彼の興味深いところは戦以外の部分にあります。一つ目は極度の愛妻家であることです。特に本妻であるガラシャへの愛は異常で庭師が妻を見ていただけで嫉妬して殺す程だったそうです。でも実は彼には数多くの妻がいてガラシャを困らせていたとも言われます。二つ目は高い芸術性を持つことです。彼は茶道に長けていて千利休の愛弟子の一人でした。そしてふんどしを作るデザイナーでもあったそうです。三つ目は、日本一とまで言われた短気な性格を持つことです。忠興が怒って殺した家臣は三十六人にも及びます。このように細川忠興は決して有名ではないっですが沢山の変わった逸話を持つ人です