成人式の季節ですねー。


地元と関わりの薄い僕は、毎年この時期は世間ほど盛り上がれなくて少し寂しいです。


なんとなーく帰る場所がないのかなーっていうような。


中学から私立に通って、その後も地方に行ったりで会うことすらないのでしょうがないのですが、「地域密着」してないので、地元に帰って集まったりすることがある人が羨ましいです。


じゃあ自分にはふるさとがないのかっていうとそんなことはなくて、僕はふるさとって「懐かしくてあったかい所」だと思うんですよ。それって別に地域とかじゃなくて、人であったり、食べ物だったりいろいろあっていいんじゃないかなーって。


なので、それ基準だと中高時代の友達が僕の「ふるさと」になるのかなと思ったりして。


どこにいても、思い出すと懐かしくてあったかい。「ふるさと」って良いですね。

ふと、自分の居場所を確かめたくなったとき、人は誰かと比べてしまいます。

でも、それがあまりにも大きすぎると、また求めるものが大きいと自分の価値を見失って、辛くなってしまいます。

僕も、負けず嫌いなところがあって、人と比べて自分の価値を計ろうとするところがあります。

それによって、向上心が生まれたり、努力出来たりと良い影響がある一方で、行き過ぎてしまうと、悪い影響も出てきてしまうのです。

今日は、「他者との比較」をテーマにお話させていただきます。

では、その他者との比較の中で、先述した悪い影響とはなんなのか。

まず一つは、勝ち負け至上主義になってしまい、そこに至るまでの自分であったり、他者であったりの思いや、その中で得たものを軽視する傾向が出てきてしまうことです。スポーツでもそうですけど、新聞のスポーツ欄で得点差を見ただけでは、そのスポーツの魅力も、選手の魅力も分からないと思います。よくスポーツを「筋書きのないドラマ」と呼びますが、これは、選手や監督、関わってる人それぞれの物語が交錯する瞬間に立ち合えていることが、見ている側の感情を揺さぶるのではないでしょうか。

確かに勝つことはどんな場面でも重要で、また大きな価値をもたらすこともあります。ただ、スポーツと個人の生き方で大きく違うのは、「勝ち」の基準がそれぞれの価値観で違うということです。自分の勝利条件が、必ずしも他者に適用するわけではないことを忘れてはいけないと思います。

二つ目は、人間関係や物事において縦で見るようになりがちになってしまうことです。たとえば、「あいつは俺より頭がよい」だとか、「あいつは俺より稼ぎが悪い」のように所謂「勝ち組、負け組」を意識して、人と接するときに常に優越感、劣等感を抱きながら生活しなければいけなくなってしまいます。

これは他に例を挙げると大学生が顕著ですね。「学歴」、「現浪」、「意識」なんて挙げればキリがないのですが、これについて言えば、大学なんて好きなところに行けば良いと思うのです。個人の学力にあった大学で、やりたいことをするのが大学という場ではないのでしょうか。偏差値が、ブランドだけが基準で大学を選ぶことって個人的には寂しい考え方だなって思います。もちろん、行きたいところのレベルが高くて、一回で手が届かないのであれば、納得するまで(親の経済的援助があれば)挑戦しても良いのではないでしょうか。もちろん、納得するまでというのは、落ちてダメでも納得するまでやるということも含みます。また、入ってからやりたいことってそれぞれ違ってるものだと思います。勉強を究めたいから、スポーツで結果をのこしたいから、たくさん遊んでそこでたくさんの経験をしたいから、色んなバイトをして本当にやりたい仕事を見つけたいから……。大学は研究機関だから遊ぶなんて、と言う人がいますが、そのために大学には単位という制度があるわけで。認められた枠の中では、あとは個々人の自由だと思います。これは、理系が文系を下に見ることでも同じことが言えると思いますが、どちらも自分で選んだ道が絶対だと思っているのでしょうか。あれもこれもなんて、なかなか難しいものです。理系も文系も、志望する段階で、それぞれの利点、欠点に気がついているはずなんですから。

人は生きる間、常に何らかの選択をし続けます。それは、他の選択肢を捨て続けることでもあります。でも、自分が捨てた選択肢の人と交わることも不可能ではありません。たくさんの人と出会い、触れあうことって、「なれなかった(ならなかった)たくさんの自分」に出会うことなんじゃないかなとも思います。

二つのことを踏まえて、僕の考えを述べると、競争社会の中で良い学歴、良い収入のある「世間的な幸せ」も、自分にとっての幸せでなければ何の価値もないものです。個々人の心の声に耳を当てて、本当のなりたい自分、幸せな生き方を追求して、その中で違った様々な価値観に触れて糧にしていくことが大切なのではないでしょうか。

なりたい自分のために頑張る人は、見ててとっても素敵です。





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ハルキ文庫「デッドヒート1」・須藤靖貴


[駅伝の魅力って?仲間の頑張りを信じ、想像することさ―。上州南陵高校陸上部三年の走水剛は、中学時代からの親友・幸田優一と共に高校駅伝の関東大会進出を目指している。将棋八段の父親は超の付く変わり者で、剛との関係は最悪だった。その父親に将来の目標を問われ、思わず「オリンピックだ」と言い返してしまった手前、チームの六番手に甘んじている現状は心苦しく…。破天荒な駅伝選手の成長を描く新シリーズ、スタート。 ]


年が明け、全日本実業団駅伝、箱根駅伝の二つの駅伝がテレビ中継され、個人的に非常に盛り上がってました。


近年、多くの駅伝がテレビ中継されるようになり、年々駅伝人気が高くなっているように感じます。


また、皇居ランナーを含め、街でもちらほら走ってる人を見かける機会も多くなりました。


駅伝好きの僕としては嬉しい限りです。


でもなぜ、駅伝は人を惹きつけるのでしょうか。走る「だけ」の行為にこんなにも多くの人が熱中するのでしょうか。


それは、駅伝が人生に似てるからなんじゃないかなって思うんです。


たくさんの人に支えられてスタートラインに立って、ライバルや倒すべき敵がいて、でも、その区間を走り始めてから襷を渡すorゴールするまではたった一人。たとえ自分の結果が区間記録として抜群に良かったとしても、チームがそれで勝てるとも限らない。走ってる間は辛くても、自分のために、仲間のために、色んな人への感謝を背負って必死に前に進む。


あんまし上手く書けなかったけど、僕自身多くの市民駅伝に出る機会が多いので、贔屓的な感情がかなり入ってしまっているため、色んなとらえ方の人がいると思います。


とにかく、どんなきっかけであれ、駅伝を好きなってくれる人が少しでも増えるといいですね。


この作品は高校駅伝がテーマです。がむしゃらで、汗臭くて、気持ちの良い、そんな体育会スピリットと、思春期の葛藤や困難に立ち向かう姿に、心を震えさせてくれます。


文章で、駅伝の熱さに触れてみませんか?