6代ガルバ帝
BC3.12.24-69.1.15(享年70歳)6代ローマ皇帝68.6.8(69歳)-69.1.15(70歳)在位7か月、近衛隊に暗殺された
7代オト帝
32.4.28-69.4.16(享年36歳)7代ローマ皇帝69.1.15(36歳)-69.4.16(36歳)在位3か月、ウィテッリウスに敗れ自殺した
8代ウィテッリウス帝
15.9.24-69.12.20(享年54歳)8代ローマ皇帝69.4.18(53歳)-69.12.20(54歳)在位8か月、ウェスパシアヌスとの戦いで敗死した
9代ウェスパシアヌス帝
9.11.17-79.6.24(享年69歳)9代ローマ皇帝69.12.21(60歳)-79.6.24(69歳)在位9年6か月、自然死、フラウィウス朝を創始した
5代皇帝ネロは自分の母親、妻、家庭教師セネカなど自分を応援してくれてる人たちまで死に追いやってもう自分ではどうにもならなくなっていました
ひとつの偉大な王朝が死にかけていました
初代皇帝アウグストゥスから90年が経っていました
その頃のローマの版図は広がりすぎていてまわりの敵に備える軍団やローマ属州の総督たちが東西南北いたるところに派遣されていました
「帝国を外敵から守っているのは自分たちなのに自分たちの待遇はちっともよくならない
むしろ年々生活が苦しくなってきている
皇帝とそのとりまき連中はいい生活をしているのに」
帝国のいたるところで不満が渦巻いていました
そのころローマ大火という火事があったのでしたがそれも皆ネロの仕業とされました
軍団の長が軍団の兵士たちに祭り上げられたり属州の総督が属州民に祭り上げられたりして
「こんなローマに誰がしたのだ、皇帝が悪い
もう皇帝をネロにはまかせておけない
われらの軍団長を今日から新皇帝と呼ぶことにしよう」そう言って軍団の兵士たちは積極的に反乱に加担していきました
西暦67年にガリア・ルグドゥネンシス(現在のフランス東部、州都はリヨン)の総督ウィンデクスが立ち上がりガリア(現在のおおよそのフランス)で反乱を起こしてヒスパニア・タラコネンシス(現在のスペインの大半)の総督ガルバを皇帝に擁立しました
「ガルバを新皇帝にしよう」
しかし総督ウィンデクスの反乱はすぐに鎮圧されてしまいウィンデクスは自殺してしまいました
ふだんなら反乱が起きて鎮圧されればそれ以上反乱は起きませんでしたがこの年は違っていました
次から次へと皇帝ネロへの不満が沸き上がってきたのでした
総督ガルバと皇帝ネロはおじいさんと若者ほど年が違いました
総督ガルバは名門家系の出身で初代皇帝アウグストゥスや2代皇帝ティベリウスの時代から仕えており若い頃から元老院議員となって活躍していましたし、高地ゲルマニア(現在のスイスあたり)の軍団司令官(ガリアの東方面軍司令官)やアフリカ属州(現在のチュニジア北部、むかしカルタゴ領)総督なども務めてきました
西暦60年からはヒスパニア・タラコネンシスの総督を務めていました
ずいぶん去就に迷ったことと思います、しかし決断は早かったのでした
ガルバは皇帝ネロに反旗を翻すと公然とローマへ向けて進軍を始めたのでした
となりのルシタニア(現在のポルトガルとスペインの一部)の総督オトもガルバの進軍に加わると、もともと皇帝ネロと距離を置いていた元老院議員たちはガルバを皇帝に推挙したあと皇帝ネロを国家の敵としました
皇帝ネロの直属兵力である親衛隊にも裏切られるとネロはガルバがローマに入城する前に自殺して果てました
オトは四皇帝のなかで年はネロに一番近くネロとは幼い頃からの遊び友達でした
オトはポッパエア・サビナの夫となっていましたが、皇帝ネロは友人の妻ポッパエア・サビナとの結婚を望んだのでオトは自分が身を引いてポッパエア・サビナと離婚しました
しかし同じ年にネロはオトを地の果て、ルシタニアの総督にしてローマから遠ざけたのです、いわゆる左遷です
ネロは元夫のオトを自分の目の前からいなくなってもらいたかったのでしょう
そうしてルシタニア総督として派遣されましたが、オトはルシタニア属州で民から人気があったようです
新皇帝ガルバはオトとは親戚どうしであり、子のないガルバは自分を後継者に指名してくれるだろうとオトは内心期待を抱いていたのですが、ガルバは腹心のピソを後継者に指名しオトの期待は大きく外れてしまいました
オトは皇帝ガルバの親衛隊を買収してガルバがピソを後継者に指名した5日後に2人を暗殺してオトがガルバに変わって帝位に就きました
オトが帝位につくのを苦々しく見ていた者たちがいました
ゲルマニア軍団の連中です
ガルバが皇帝になれたのもオトが皇帝になれたのも元はと言えばネロに反乱を起こし立ち上がったウィンデクスのおかげなのです
そのウィンデクスを討って自殺させたのはゲルマニア軍団でした
ガルバは皇帝就任の時、慣例となっていた賜金の支給を兵士に行わなかったので軍団の不満はさらに大きくなっていったのです
そんな時に低地ゲルマニア(現在のオランダ、ベルギー)軍団司令官に派遣されてきたのがウィテッリウスでした
ウィテッリウスは兵士に気前がよく、たちまち軍団内で人気がでてきました
高地ゲルマニア軍団がガルバへの忠誠を拒否し、続いて低地ゲルマニア軍団もガルバへの忠誠を拒否し、司令官のウィテッリウスが皇帝に擁立されたのでした
他の軍団からの支持も得てローマへ向かって進軍を始めました
そのころはガルバが暗殺されてオトが新皇帝に立っていたのですがクレモナの戦いでウィテッリウスが勝つとオトは自殺し元老院もウィテッリウスの帝位を承認しました
ウィテッリウスには帝位についたあとの政策について明確な方針はありませんでした
新たに定めた法律などはなく贅沢三昧な生活を送ります
豪華な食事のために数か月で莫大な金額をつかったと記録されています(換算は出来ないのですがたぶん日本円にして2000億円以上です)
またゲルマニア軍団の風紀が乱れてきたことや前皇帝オトの軍の幹部を軒並み処刑していったことなどでローマ市民の支持をなくしました
四皇帝の年の4番目、ウェスパシアヌスは小さい頃に軍隊に入り順調に軍歴を重ねていきました
母親は騎士階級で父親は結婚によりその身分となりました
パレスチナで反乱(ユダヤ戦争)が起きた時軍司令官として派遣されました
50代後半でした
パレスチナでの暴動自体はシリア総督ムキアヌスによって食い止められていました
そんななか皇帝ネロが帝位を追われて自殺して新皇帝が乱立する内乱期へと突入しました
彼はシリア総督ムキアヌス(自身も皇帝に推挙された)の支持を受けてシリア属州の軍団を味方につけました
その後エジプト属州の支持を受けました(エジプトは軍団の胃袋を満たすため是非とも味方につけておく必要がありました)
当時皇帝ウィテッリウスはライン川防衛などを受け持つ強力な軍団を支配下に入れていました
そんななかウェスパシアヌスはドナウ川防衛を受け持つ軍団の支持を受けて事実上皇帝ウィテッリウスに対抗できる唯一の勢力となりました
そんな彼は腹心のプリムスをイタリア半島に侵攻させました
与党ムキアヌスがバルカン半島(ギリシャ)を北上しつつ抵抗勢力を駆逐していきました
そんななかでプリムスのドナウ川防衛軍団がウィテッリウスの軍を撃破しクレモナを制圧してローマへと進軍してきました
バルカン半島を北上しているムキアヌスの軍隊もローマへと入り雌雄は決したのです
皇帝ウィテッリウスは無残な死に方をしたと伝えられています
いまだ継続していたユダヤの抵抗勢力はウェスパシアヌスの長男ティトゥスに任され、のちにイェルサレムは陥落して戦争は終結しました
楕円形の競技場はありましたがそれまでローマにはなかった円形闘技場コロッセオの建設を始めましたが、ウェスパシアヌスの生前に
は完成しませんでした
新皇帝ウェスパシアヌスのフラウィウス朝は長男ティトゥス、次男ドミティアヌスと続きました
お読みくださりありがとうございました
次はティトゥス帝治世中に起こったヴェスヴィオ火山の噴火です