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世界人権宣言 全文

世界人権宣言
1948年12月10日に国際連合第三回総会で採択

前文
人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎であるので、
人権の無視及び軽侮が、人類の良心を踏みにじつた野蛮行為をもたらし、言論及び信仰の自由が受けられ、恐怖及び欠乏のない世界の到来が、一般の人々の最高の願望として宣言されたので、
人間が専制と圧迫とに対する最後の手段として反逆に訴えることがないようにするためには、法の支配によつて人権を保護することが肝要であるので、
諸国間の友好関係の発展を促進することが、肝要であるので、
国際連合の諸国民は、国際連合憲章において、基本的人権、人間の尊厳及び価値並びに男女の同権についての信念を再確認し、かつ、一層大きな自由のうちで社会的進歩と生活水準の向上とを促進することを決意したので、
加盟国は、国際連合と協力して、人権及び基本的自由の普遍的な尊重及び遵守の促進を達成することを誓約したので、
これらの権利及び自由に対する共通の理解は、この誓約を完全にするためにもつとも重要であるので、
よつて、ここに、国際連合総会は、
社会の各個人及び各機関が、この世界人権宣言を常に念頭に置きながら、加盟国自身の人民の間にも、また、加盟国の管轄下にある地域の人民の間にも、これらの権利と自由との尊重を指導及び教育によつて促進すること並びにそれらの普遍的かつ効果的な承認と遵守とを国内的及び国際的な漸進的措置によつて確保することに努力するように、すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準として、この世界人権宣言を公布する。

第一条
すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもつて行動しなければならない。

第二条
1 すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。
2 さらに、個人の属する国又は地域が独立国であると、信託統治地域であると、非自治地域であると、又は他のなんらかの主権制限の下にあるとを問わず、その国又は地域の政治上、管轄上又は国際上の地位に基づくいかなる差別もしてはならない。

第三条
すべて人は、生命、自由及び身体の安全に対する権利を有する。

第四条
何人も、奴隷にされ、又は苦役に服することはない。奴隷制度及び奴隷売買は、いかなる形においても禁止する。

第五条
何人も、拷問又は残虐な、非人道的な若しくは屈辱的な取扱若しくは刑罰を受けることはない。

第六条
すべて人は、いかなる場所においても、法の下において、人として認められる権利を有する。

第七条
すべての人は、法の下において平等であり、また、いかなる差別もなしに法の平等な保護を受ける権利を有する。すべての人は、この宣言に違反するいかなる差別に対しても、また、そのような差別をそそのかすいかなる行為に対しても、平等な保護を受ける権利を有する。

第八条
すべて人は、憲法又は法律によつて与えられた基本的権利を侵害する行為に対し、権限を有する国内裁判所による効果的な救済を受ける権利を有する。

第九条
何人も、ほしいままに逮捕、拘禁、又は追放されることはない。

第十条
すべて人は、自己の権利及び義務並びに自己に対する刑事責任が決定されるに当つて、独立の公平な裁判所による公正な公開の審理を受けることについて完全に平等の権利を有する。

第十一条
1 犯罪の訴追を受けた者は、すべて、自己の弁護に必要なすべての保障を与えられた公開の裁判において法律に従つて有罪の立証があるまでは、無罪と推定される権利を有する。
2 何人も、実行の時に国内法又は国際法により犯罪を構成しなかつた作為又は不作為のために有罪とされることはない。また、犯罪が行われた時に適用される刑罰より重い刑罰を課せられない。

第十二条
何人も、自己の私事、家族、家庭若しくは通信に対して、ほしいままに干渉され、又は名誉及び信用に対して攻撃を受けることはない。人はすべて、このような干渉又は攻撃に対して法の保護を受ける権利を有する。

第十三条
1 すべて人は、各国の境界内において自由に移転及び居住する権利を有する。
2 すべて人は、自国その他いずれの国をも立ち去り、及び自国に帰る権利を有する。

第十四条
1 すべて人は、迫害を免れるため、他国に避難することを求め、かつ、避難する権利を有する。
2 この権利は、もつぱら非政治犯罪又は国際連合の目的及び原則に反する行為を原因とする訴追の場合には、援用することはできない。

第十五条
1 すべて人は、国籍をもつ権利を有する。
2 何人も、ほしいままにその国籍を奪われ、又はその国籍を変更する権利を否認されることはない。

第十六条
1 成年の男女は、人種、国籍又は宗教によるいかなる制限をも受けることなく、婚姻し、かつ家庭をつくる権利を有する。成年の男女は、婚姻中及びその解消に際し、婚姻に関し平等の権利を有する。
2 婚姻は、両当事者の自由かつ完全な合意によつてのみ成立する。
3 家庭は、社会の自然かつ基礎的な集団単位であつて、社会及び国の保護を受ける権利を有する。

第十七条
1 すべて人は、単独で又は他の者と共同して財産を所有する権利を有する。
2 何人も、ほしいままに自己の財産を奪われることはない。

第十八条
すべて人は、思想、良心及び宗教の自由に対する権利を有する。この権利は、宗教又は信念を変更する自由並びに単独で又は他の者と共同して、公的に又は私的に、布教、行事、礼拝及び儀式によつて宗教又は信念を表明する自由を含む。

第十九条
すべて人は、意見及び表現の自由に対する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の意見をもつ自由並びにあらゆる手段により、また、国境を越えると否とにかかわりなく、情報及び思想を求め、受け、及び伝える自由を含む。

第二十条
1 すべての人は、平和的集会及び結社の自由に対する権利を有する。
2 何人も、結社に属することを強制されない。

第二十一条
1 すべての人は、直接に又は自由に選出された代表者を通じて、自国の政治に参与する権利を有する。
2 すべて人は、自国においてひとしく公務につく権利を有する。
3 人民の意思は、統治の権力の基礎とならなければならない。この意思は、定期のかつ真正な選挙によつて表明されなければならない。この選挙は、平等の普通選挙によるものでなければならず、また、秘密投票又はこれと同等の自由が保障される投票手続によつて行われなければならない。

第二十二条
すべて人は、社会の一員として、社会保障を受ける権利を有し、かつ、国家的努力及び国際的協力により、また、各国の組織及び資源に応じて、自己の尊厳と自己の人格の自由な発展とに欠くことのできない経済的、社会的及び文化的権利を実現する権利を有する。

第二十三条
1 すべて人は、勤労し、職業を自由に選択し、公正かつ有利な勤労条件を確保し、及び失業に対する保護を受ける権利を有する。
2 すべて人は、いかなる差別をも受けることなく、同等の勤労に対し、同等の報酬を受ける権利を有する。
3 勤労する者は、すべて、自己及び家族に対して人間の尊厳にふさわしい生活を保障する公正かつ有利な報酬を受け、かつ、必要な場合には、他の社会的保護手段によつて補充を受けることができる。
4 すべて人は、自己の利益を保護するために労働組合を組織し、及びこれに参加する権利を有する。

第二十四条
すべて人は、労働時間の合理的な制限及び定期的な有給休暇を含む休息及び余暇をもつ権利を有する。

第二十五条
1 すべて人は、衣食住、医療及び必要な社会的施設等により、自己及び家族の健康及び福祉に十分な生活水準を保持する権利並びに失業、疾病、心身障害、配偶者の死亡、老齢その他不可抗力による生活不能の場合は、保障を受ける権利を有する。
2 母と子とは、特別の保護及び援助を受ける権利を有する。すべての児童は、嫡出であると否とを問わず、同じ社会的保護を受ける。

第二十六条
1 すべて人は、教育を受ける権利を有する。教育は、少なくとも初等の及び基礎的の段階においては、無償でなければならない。初等教育は、義務的でなければならない。技術教育及び職業教育は、一般に利用できるものでなければならず、また、高等教育は、能力に応じ、すべての者にひとしく開放されていなければならない。
2 教育は、人格の完全な発展並びに人権及び基本的自由の尊重の強化を目的としなければならない。教育は、すべての国又は人種的若しくは宗教的集団の相互間の理解、寛容及び友好関係を増進し、かつ、平和の維持のため、国際連合の活動を促進するものでなければならない。
3 親は、子に与える教育の種類を選択する優先的権利を有する。

第二十七条
1 すべて人は、自由に社会の文化生活に参加し、芸術を鑑賞し、及び科学の進歩とその恩恵とにあずかる権利を有する。
2 すべて人は、その創作した科学的、文学的又は美術的作品から生ずる精神的及び物質的利益を保護される権利を有する。

第二十八条
すべて人は、この宣言に掲げる権利及び自由が完全に実現される社会的及び国際的秩序に対する権利を有する。

第二十九条
1 すべて人は、その人格の自由かつ完全な発展がその中にあつてのみ可能である社会に対して義務を負う。
2 すべて人は、自己の権利及び自由を行使するに当つては、他人の権利及び自由の正当な承認及び尊重を保障すること並びに民主的社会における道徳、公の秩序及び一般の福祉の正当な要求を満たすことをもつぱら目的として法律によつて定められた制限にのみ服する。
3 これらの権利及び自由は、いかなる場合にも、国際連合の目的及び原則に反して行使してはならない。

第三十条
この宣言のいかなる規定も、いずれかの国、集団又は個人に対して、この宣言に掲げる権利及び自由の破壊を目的とする活動に従事し、又はそのような目的を有する行為を行う権利を認めるものと解釈してはならない。

[出典] 外務省条約局,主要条約集(平成十年版)下巻,823-830頁.

ロベール・バダンテール 死刑廃止演説 (2) (1981年9月17日、フランス国民議会)

1981年9月17日、フランス国民議会、死刑廃止法案の審議における、法務大臣ロベール・バダンテールの演説全文訳 (2)


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(1) からの続き)


法務大臣: 最初の明白な事実はこれです。自由の国ではほとんどあらゆるところで、死刑廃止が規則になっております。独裁制が支配する国ではどこでも、死刑が実施されているのです。

世界のこの色分けは単純な偶然の一致によるものではなく、一つの相関関係を表しております。死刑の本当の政治的意味は、国家は市民の命を奪うところまで市民を意のままにする権利を持っているという考えに死刑は由来するということなのです。それゆえに死刑が全体主義政体の中には規定されているのです。

まさにその意味でも、司法の現実の中で、また、レーモン・フォルニが指摘していた現実の中にまで、死刑の本当の意味が改めて見えてまいります。司法の現実の中では、死刑とは何でしょうか。12人の男女の陪審員。2日間の審問。事件にまつわることがらの奥底まで触れることは不可能。そして、数十分、時には数分で罪悪性についての非常にむずかしい問題に断定的に判断をくだす。それ以上に、ほかの人の生死を決定するという恐ろしい権利もしくは義務。12人の人が、ある民主主義国で、次のようなことを言う権利があるというわけです。「こいつは生きていてよい、こいつは死ななければならない!」と。私ははっきり申します。この司法の構想は、自由の国のそれではありえません。まさに、そこに含まれる全体主義的な意味のゆえにそう言えるのです。

一方、恩赦権ですが、レーモン・フォルニが改めて言及したように、このことについて問いを発するのは適切なことです。王がこの地上で神を代表していたとき、そして王が神意を聞いていたとき、恩赦権には正当な根拠がありました。ある一つの文明の中、あるいは、体制に宗教的信念が浸透しているある一つの社会の中では、神の代表者は生死を決定する権利を持つことができたというのは容易に理解できます。しかし、共和国においては、つまり民主主義国においては、いかなる人間も、いかなる権力も、その長所がなんであろうとも、また、その意識がどうであろうとも、平時においては誰に対してもそのような権利を持つことはできないのです。

ジャン・ファララ議員: 殺人者に対しては話は別だ!

法務大臣: 今日、死刑について、テロリズムがもたらす重大な脅威から民主主義を守る最後のよりどころの一種、あるいは、極端な防衛手段の一つであるとみなす人々がいると私は知っておりますが、それこそが大きな問題だと思います。ギロチンは民主主義の名誉を汚すのではなくて、場合によっては民主主義を保護するものだとそういう人々は考えているのです。

この論は現実についての完全な無知からきています。実際、死の威嚇の前で決してたじろがない種類の犯罪があるとしたらそれは政治的犯罪であると歴史は教えています。そして、さらに具体的には、死の威嚇によっても後退させることのできない種類の男女がいるとしたら、それはまさにテロリストなのです。なぜかといえば、まず、テロリストは暴力的行為のさなかに恐怖に直面するからです。また、次に、心の底でテロリストは暴力と死に心をかき乱され、魅了されているからです。その魅了の心は与えるものであると同時に、受け取るものでもあります。私にとっては、テロリズムは民主主義に反する主要な犯罪の一つであり、もしこの国でテロリズムが蜂起するとすれば、それは鎮圧され、きわめて厳格に訴追されるでしょう。テロリズムを喚起するイデオロギーがなんであろうとも、テロリズムの合言葉、スペイン戦争のファシストたちの恐ろしい叫びは「ビバ・ラ・ムエルテ!」(死よ万歳!)というものなのです。したがって、死によってテロリズムを止められると信じるのは幻想です。

もっと詳しく述べましょう。もし、テロリズムの餌食になっている隣の民主主義諸国で、その国が死刑を復活させるのを拒んでいるとしたら、それはもちろん道徳的要求によるものですが、それと同時に政治的理由もあるのです。実際、ある種の人々、ことに若者の目からは、テロリストの処刑はそのテロリストを超えて、テロリストをその行為の犯罪的現実から分かつように見えるのです。実は、一つの主義主張に仕えて行動を起こし、たとえその主義主張がどんなに憎むべきものであるとしても自分の道を最後まで貫き通すところまで行ったであろう英雄の一種となるのです。そのときから、一人テロリストが処刑されるたびに陰の中で20名の迷える若者が蜂起する大きなリスクが生じます。これは、友邦民主主義国の政治家が正確に調べたことです。このように、死刑はテロリズムと戦うどころか、テロリズムを育てるのです。(社会党議員席と一部の共産党議員席から拍手。)

このように事実を考えると、ひとつの道徳的与件(訳注:既知の事実、思考の前提)を加えなければなりません。
テロリストに対して死刑を用いることは、民主主義国にとっては、テロリストの価値観をわが物とすることになるのです。テロリストたちが犠牲者を誘拐した後、恐ろしい対応関係を犠牲者から強引に奪い取ったあとに、司法の品位を落とすパロディにしたがって犠牲者を処刑するとき、テロリストたちは忌まわしい罪を犯しているだけでなく、民主主義に最も陰険なわなを仕掛けていることになるのです。それは、この民主国を死刑に頼るように強制することによって、テロリスト自身の流血の顔をその民主国に与えることをテロリストたちに許してしまう、人殺しの暴力の罠なのです。それは、価値観の一種の逆転によって生じるのです。

この誘惑は絶対に退けなければなりませんが、しかし、テロリズムという民主国では容認できない究極の形の暴力に妥協してはなりません。

しかし、テロリズムの激情面のこの問題を調べつくした後で、明晰な精神で最後まで考えをすすめたいなら、死刑の維持か廃止かの選択は、結局、社会にとっても、また、私たちの一人一人にとっても、道徳的選択だということがわかります。

権威の論を用いることはいたしません。なぜなら、それは議会においては場違いになってしまうからであり、この議場の中ではあまりにも安易すぎるからです。
しかし、ここ数年で、フランスのカトリック教会、改革教会協議会、ユダヤ教律法学者が死刑に反対して大きく声をあげていることを指摘しないわけにはまいりません。アムネスティ・インターナショナル、国際人権協会、人権連盟といった、自由と人権の擁護のために世界中で闘っている国際的な大きな団体すべてが、死刑廃止を実現するためにキャンペーンをおこなったことも強調しないではいられません。

アルベール・ブロシャール議員: 犠牲者の家族は除いてだ!(社会党議員席から長いざわめき。)

法務大臣: 宗教的、あるいは非宗教的なこれだけの良心ある人々や神のしもべや自由人たちのこの連携は、道徳的価値の危機が絶え間なく語られるある時代にあっては意義深いものです。

ピエール=シャルル・クリーク議員: それから、フランス人の33%(訳注:直前の世論調査で死刑に反対していたフランス人の割合)もそこに含まれることを忘れないでくれ!

法務大臣: 死刑を支持する方々の選択については、死刑廃止を願う人々も私もいつもその選択を尊重してまいりましたが、その逆は必ずしも真ではなかったと残念ながら申しあげなければなりません。ある深い確信、つまり自由人において私がいつも尊重している信条の表明にすぎなかったものに対して、死刑支持派の方々からしばしば憎悪が向けられます。罪人の死が正義の要求だというのが死刑支持派の方々の主張なのです。死刑支持派の方々にとっては、犯罪遂行者が自分の命を代償にする以外の償いをするにはあまりにも残虐すぎる犯罪があるということなのです。犠牲者の死と苦しみ、この恐ろしい不幸に対して、絶対的で必要な対応物としてもう一つの死ともう一つの苦しみを要求するということなのです。最近のある法務大臣が宣告するには、それがかなわないならば、犯罪が社会の中に引き起こした不安と激情は鎮められないということだそうです。これは、私の考えでは、贖罪の犠牲と呼ぶものだと思います。そして、死刑に賛成する方々は、有罪者の死がこだまのように犠牲者の死に応えないならば正義は成されないと言うのです。

はっきりと申しましょう。これは、数千年にわたって同等報復刑法が人間の司法に共通する必要な法律であり続けるだろうというだけの意味にすぎません。

犠牲者の不幸と苦しみについては、それを引き合いに出す人々よりもずっと、私は自分の人生の中でひんぱんに、その影響の広がりを確かめてまいりました。犯罪が人間の不幸の遭遇点であり地理的場所であるということを、私は誰よりも熟知しております。犠牲者自身の不幸と、それ以上に、犠牲者の親族や近親者の不幸があります。また、犯罪者の親族の不幸もあります。そして、たいへんに多くの場合、殺人者の不幸もあります。そうです。犯罪は不幸であります。そして、感情、理性、責任感ある男女には、まずその不幸と闘おうと望まない者はいないのです。

しかし、自分自身の心の奥深くで犠牲者の不幸と苦しみを感じ、それでいて暴力と犯罪がこの社会の中で退くようにあらゆる方法で闘うという、この気持ちとこの闘いは、有罪者を必ず死刑にすることを意味することはできないでしょう。犠牲者の親族や近親者が罪人の死を望むことは傷ついた人間の自然な反応であり、私はそれを理解いたしますし、それを考えもいたします。しかし、それは人間の自然な反応なのです。一方、司法のあらゆる歴史的進歩は、個人的報復を乗り越えることでありました。まず同等報復刑法を拒否するのでなければ、どうして個人的報復を乗り越えられるでありましょうか。

死刑にこだわる動機の奥底には、しばしば告白されないままの、排除への誘惑があるものだというのが真実です。多くの人にとって耐えられないように思われるのは、刑務所に入った犯罪者の生命よりも、犯罪者がいつの日か再び罪を犯すという恐れなのです。そして、この点に関しての唯一の保証は用心のために犯罪者を死刑に処することだと多くの人が考えているのです。

かくして、この考えでは、司法は復讐のためというよりも慎重さのために殺すのだということになります。したがって、贖罪の司法を超えて排除の司法があらわれ、その天秤(訳注:公正さ、司法の象徴)の後ろにギロチンがあらわれます。殺人者は死ななければならない、理由は単純で、殺人者を殺せば再犯はなくなる、というわけです。これは非常に単純で非常に正当なように聞こえます!

しかし、正義の名のもとに排除の司法を受け入れるか賞賛するのであれば、どういう方向に進むかをはっきりと知らなければなりません。死刑賛成派からの承認も得るためには、犯罪者を殺す司法は事情を承知して殺さなければならないことになります。私たちの司法は、名誉なことに、心神喪失者を殺すことはいたしません。しかし、司法には心神喪失者を確実に見分けるすべはありません。偶然に非常に左右され、非常に不確実な精神鑑定にそれをゆだねることになるのが司法の現実です。精神鑑定が殺人者に有利な判定を出せば殺人者は死刑を免除されます。その場合、いきどおる者がないようにしながら社会は犯罪者が示すリスクを受け入れることになります。殺人者に不利な判定を出せば殺人者は処刑されることになります。排除の司法を受け入れるならば、歴史のいかなる論理の中に私たちが位置するかを政治の責任者は正確に知る必要があるのです。

私は、犯罪者と同じく心神喪失者や政治的反対者や社会を「汚染する」性格を持っているようだと思われる人々を排除する社会のことを話しているのではありません。そうではなくて、民主主義のうちに営まれている国々の司法だけに話を限っております。

まさに排除の司法の中に埋もれ、隠れて、密かな人種差別がのぞいております。1972年にアメリカ合衆国最高裁が死刑廃止に傾いた理由は主に、黒人は人口の12%しかいないのに、死刑囚の60%は黒人であるということを確認したからです。司法人からみて、何とめまいのするような結果でしょうか。私も声を落としてみなさん全員の方に向き直り、申しあげなければなりません。フランスでさえも、外国人比率は8%なのにもかかわらず、1945年以降に出された36の確定死刑判決のうち、外国人は9名つまり25%を数えます。その中で5人が北アフリカのマグレブ人(訳注:マグレブ諸国とは、北アフリカ北西部のモロッコ、アルジェリア、チュニジアなどのアラブ圏の国々を指す。フランスがその地方を植民地化していたことから、その地域からの移民をフランスは受け入れている)ですが、フランスでのマグレブ人の人口比率は2%にすぎないのです。1965年以降執行された死刑囚9名のうち、外国人が4人いて、そのうち3人がマグレブ人です。マグレブ人の犯罪はほかの人々の犯罪よりも憎むべきものだったというのでしょうか?あるいは、その瞬間の犯罪者が密かに恐怖を広めていたという理由でより深刻に見えるということなのでしょうか?これは一つの問いかけです。そしてこれは一つの問いかけにすぎませんが、あまりにも差し迫った問いかけであり、あまりにも胸の痛む問いかけです。私たちをこれほどの残忍さで問い詰めるこの問いに終止符を打つことができるのは死刑廃止ただそれだけなのです。

結局、死刑廃止とは一つの根源的な選択であり、人間と司法についてのある一つの構想なのです。人を殺す司法を望む人々は、二重の信念に動かされています。
一つは、完全に有罪の人間、つまり自分の行為に完全に責任のある人間が存在するという信念。もう一つは、こいつは生きてよい、こいつは死ななければならないと言いうるほどにその無過誤を確信した司法が存在する可能性があるという信念です。

私はこの歳になって、この二つの断言はどちらも等しく間違っていると思います。彼らの行為がどれだけ恐ろしくどれだけ憎むべきものであろうとも、完全な有罪性を持っていて永遠に完全な絶望の対象にならなければならない人間はこの地上にはおりません。司法がどれだけ慎重なものであっても、また、判断をくだす陪審員男女がどれだけ節度がありどれだけ不安にさいなまれていようとも、司法はずっと人間の行いでありますから、誤りの可能性をなくすことはできません。

そしてまた、社会全体つまり私たちの名のもとに死刑の評決が下されて、死刑が執行された後、死刑囚は無実であると判明することは起こりえることです。そういうことが起こる時、司法が究極の不正義を行なってしまうという理由で社会全体つまり私たち全員がまとめて有罪になるとき、私はただ司法の絶対的過誤についてだけ申しあげているのではありません。私はまた、同じ被告が最初は死刑判決を下されたが形式上の不備で有罪判決が破棄されて新たに裁かれ、事実認定は同じなのに二度目は死刑をまぬがれるという、下された評決の不確実性と矛盾についても語っております。まるで、司法において、一人の人間の命が裁判所書記のペン先の誤りの偶然にもてあそばれているかのようではありませんか。あるいは、これこれの罪人がほんの少しの罪で処刑されるのに、もっと犯罪性の高いほかの罪人が審問の激情と雰囲気と誰それの逆上を利用して命を救われるということもあるでしょう。

人間の命がかかっているときにこの言葉を口に出して感じる苦悩が何であろうとも、この種の司法的くじ引きは容認できません。フランスの最高司法官であるモーリス・エダロ氏(訳注:フランスの法曹家に最も尊敬されている法律家で、破棄院主席名誉裁判長)は司法に捧げた長いキャリア全体の期間、ほとんどの活動を検事として行なった人ですが、彼は、死刑の適用ぶりが偶然に左右されるのを見るにつれて死刑が耐えがたいものになったと言っています。何かに完全に責任を負うべき人間は存在せず、どんな司法も絶対的に無過誤にはなれないゆえに、死刑は道徳的に受け入れられないのです。私たちのうちで神を信じる人たちにとっては、私たちが死ぬ時期を選ぶ力は神だけにあるのです。すべての死刑廃止賛成者にとっては、人間の司法がこの死の権限を持つことを認めることはできません。なぜなら、死刑廃止を支持する人々は司法が過ちうるものだと知っているからです。

したがって、みなさんの良心にゆだねられている選択ははっきりしています。一つの選択肢は、人をあやめる司法を私たちの社会が拒んで、基本的な価値観の名のもとに、つまりすべての価値のうちで司法を偉大で尊敬できるものにした価値観の名のもとに、恐怖をもたらす者、つまり心神喪失者あるいは犯罪者、あるいはその両方の命を引き受けることを受け入れることです。つまり、それは死刑廃止という選択です。もう一つの選択肢は、何世紀もの経験にもかかわらず、この社会が犯罪者を抹殺することで犯罪をなくせると信じることです。つまり、それは死刑という選択です。

この排除の司法、つまりこの不安と死の司法が決められるとき、偶然の誤差が伴います。しかし、私たちはこの排除の司法を拒否します。私たちがこれを拒否するのは、それは私たちにとって反司法であるからであり、それは理性と人間性を圧倒する激情であり恐怖であるからです。

これで、この重要な法律の精神と着想の源という重要なことは申しあげ終わりました。レーモン・フォルニが先ほど、方向性を示す方針をそこから引き出してくれました。それは単純で明確です。

死刑廃止は道徳的選択ですから、完全にはっきりと態度を明らかにしなければいけません。したがって、いかなる制限もいかなる留保事項も付けずに死刑廃止を可決するよう政府はみなさんに求めます。おそらく、死刑廃止の範囲を制限し、いろいろな犯罪カテゴリーをそこから除くことをめざす修正案が提出されるでしょう。それらの修正案の着想は理解いたしますが、政府はみなさんにそれを否決するように求めます。

その第一の理由は、「忌まわしい犯罪以外について死刑を廃止する」という条文は、現実には死刑に賛成する宣言しか含まないからです。司法の現実では、忌まわしい犯罪以外では誰も死刑を受けません。したがって、それならばむしろ、文体の便宜を避けて死刑支持を表明するほうがよいのです。(社会党議員席から拍手。)

犠牲の内容、ことに犠牲者の特別な弱さあるいは犠牲者が受けるリスクの大きさにかんがみて死刑廃止を排除する提案についても、私たちは犠牲者に寛容の情を抱くものではありますが、政府はそれを否決することを求めます。

これらの排除案は一つの明白な事実を無視しています。すべての犠牲者、私ははっきりとすべての犠牲者と明言しますが、それは同じ同情を誘うのであり、同じ憐憫の情をよびおこすのです。たぶん、私たち各自には、子どもあるいは老人の死は、30歳の女性や責任を負った熟年男性の死よりも容易に感情をよびおこすでしょう。しかし、人間の現実の中では、死は苦痛を伴うことに変わりはなく、この点についてのいかなる区別も不正義を生むことでありましょう!

警察官あるいは刑務官については、その代表機関が、そのメンバーの命に危害を加える者に対しての死刑の維持を要求しています。彼らを突き動かす心配を政府は完全に理解しておりますが、これらの修正案も否決するようにお願いいたします。

警察勤務者と刑務所勤務者の安全は保証されなければなりません。彼らを確実に保護するためのあらゆる必要な措置をとらなければなりません。しかし、20世紀が終わろうとしているフランスでは、警察官と刑務所看守の安全を守る役割をギロチンにゆだねることはいたしません。彼らを襲うかもしれない犯罪への制裁に関しては、それがどんなに正当であろうとも、私たちの法律の中では、この刑罰はほかの犠牲者に対して犯された罪の犯人に与えられる刑罰よりも重くすることはできません。はっきり申しましょう。何らかの職業または団体の利益になる刑法的特権がフランスの司法に存在してはなりません。警察勤務者と刑務所勤務者はそのことを理解してくれると信じております。私たちは彼らの安全について注意深く取り組みますが、フランス共和国の中で他とちがう団体を決して作るわけにはいかないということを警察、刑務所勤務者のみなさんには理解していただきたいのです。

明瞭さという同じ意図で、この法案はいかなる代替刑に関する条項も含んでおりません。

その理由は、まず道徳的なものです。死刑は体刑であり、体刑を別の体刑で置きかえてはならないからです。

また、政治上の理由、法律上の明瞭さという理由もあります。普通、代替刑は安全期間を対象にします。つまり、受刑者が条件付釈放の措置またはなんらかの形の延期措置を受ける可能性がない、法律に記された猶予期間を対象にします。このような刑罰はすでに私たちの法律の中に存在しており、その継続期間には18年におよぶものもあります。

私がこの点について国民議会に、この安全措置を変更することを目指す議論を始めないようにお願いするのは、2年の猶予期間後に、つまり刑法の法律の導入プロセスからみて比較的短い猶予期間の後に、政府は国民議会に新しい刑法の法案を謹んで提出するからです。その新しい刑法法案は20世紀末、そして21世紀の地平線にあるフランス社会に適した刑法になることを私は望んでおります。この機会に、今日と明日のフランス社会のために刑罰体系のあるべき姿をみなさんが定義し、確立し、吟味するのがよいのではないでしょうか。それが、死刑廃止の原則の議論と代替刑についての議論、というよりもむしろ、死刑廃止の原則の議論と安全措置についての議論とを混ぜないようにお願いする理由です。なぜなら、この議論は時期が悪いと同時に無益でもあるからです。

なぜ時期が悪いのかといえば、調和のとれた刑罰体系を作るためには、全部まとめて考慮し定義しなければならないからです。その目的からして必然的に熱がはいることになる議論を利用してはいけないからです。そんな議論では、部分的な解決に達するだけで終わってしまうでしょう。

無益な議論と申しあげたのは、議員のみなさんが私たちの刑罰体系を定義する前に過ぎるであろう2年後か最大でも3年後に無期禁固労働刑を言い渡されることになる人々に、現存の安全措置が適用されることが明らかだからです。したがって、そのために受刑者の釈放の問題がどんな形ででも発生してはならないからです。立法者のみなさんは、新しい刑法の中に書かれた定義が彼らに適用されることになるということをよくご存知です。それは、より温和になった刑法がすぐにもたらす効果によってであるか、あるいは、もしその刑法がより厳格になるならば、条件付き釈放の制度がすべての終身刑受刑者にとって同じく適用されて私たちがそれらの区別をすることができなくなるゆえかのどちらかであります。したがって、今はこの議論を始めないでいただきたい。

明瞭さと単純さという同じ理由で、私たちは法案の中に戦時に関する条項を入れませんでした。命の軽視や死をもたらす暴力が共通の法になるとき、また、平時の本質的な価値のいくつかが祖国防衛の優越性をあらわすほかの価値に置きかえられるときには、そもそも紛争の間は死刑廃止の根拠が集合意識から消えてしまい、もちろん、その場合は死刑廃止が凍結されることになってしまうということを政府は知っております。

今幸いなことに平和である私たちのフランスでみなさんが死刑廃止をやっと決定するこの瞬間に、戦時の死刑の適用範囲があるとしたらどんな場合かと議論することは場違いだと政府には思われました。しかし、戦争を告げるきざしが何もないのは幸いなことであります。もし仮に試練の時が来るならば、戦時立法が求める多くの特別条項と同時にそれに必要な措置をとるのは政府と立法者の役目です。しかし、死刑を廃止する今この瞬間に戦時立法の様式を決めるのは意味がないでしょう。190年の議論の末にみなさんがやっと死刑廃止を表明し決定するこの瞬間においては筋違いでしょう。

私の論はこれで終わりです。

私がおこなった発言、私が申し立てた理性は、みなさんの心とみなさんの良心が私に対してだけではなくてみなさんに対してもすでに伝えていた事柄です。フランスの司法史におけるこの重要な瞬間に、私は政府の名においてそれらのことを想起していただきたかっただけであります。

私たちの法律においては、すべてがみなさんの意志とみなさんの良心にかかっていると私は知っています。みなさんの多くが、多数派与党内においてだけではなく、少数派野党内においても死刑廃止のために闘ったと私は知っています。議会がその唯一の発議によったならば、私たちの法律を死刑から容易に解放することができたことだろうと私は知っております。みなさんは、政府法案という形で死刑廃止をみなさんの採決にかけることを承諾してくださいました。それによって、政府と私自身をこの大きな(立法)措置に参加させてくださったのです。そのことについてみなさんに感謝させてください。

明日、みなさんのおかげで、フランスの司法はもはや人を殺める司法ではなくなるのです。明日、みなさんのおかげで、夜明け方のフランスの刑務所の黒い天蓋の下で人目をしのんでこっそり執行される、私たちの共通の恥である死刑が無くなるのです。明日、私たちの司法の血塗られたページがめくられるのです。

この瞬間、ほかのどんな瞬間にもまして、私は古来の意味において、最も高貴な意味において、つまり、「奉仕」という意味において、私の大臣職の責任を全うしたという気持ちです。明日はみなさんに死刑廃止を可決していただくようお願いします。フランス立法府のみなさん、ご清聴に心から感謝いたします。(社会党議員席と共産党議員席、一部の共和国連合議員席とフランス民主連合議員席から拍手。社会党議員と一部の共産党議員は立ち上がり、長く拍手。)


出典:フランス官報 国民議会審議録 1981年9月17日(木)、第一会議

翻訳:村野瀬玲奈