早いもので、あの悲劇的な震災から今日で半年です。
お亡くなりになられた方には改めて黙とうをさせて頂き、ご冥福をお祈りいたしております。


少し長いブログ記事になりますが、毎日みるニュースの中で、昨日、皆さんに伝えたい人々をまとめました。少しづつでもいいので読んでくだされば嬉しいです。


あれだけ悲劇的で悲しい歴史をこうやってたえず忘れないことが大事。ちゃんと語り伝えていくことが大事ですね。
その上で前を向いてしっかりと生きていくことが大事だと思います。




【半年たった現状】


現在 死者・行方不明者は1万9867人。このほか、不明のまま死亡届が受理され、死者・不明者に含まれない人もいる。避難生活者は47都道府県で約8万2000人。学校や公民館などの避難所には依然、約6800人が生活を続けているらしいのです。仮設住宅は今月5日現在で、必要戸数の94%に当たる4万9124戸が完成した。入居率は84%。岩手県は全戸が完成し、宮城県も今月中に全戸の建設が達成する見込み。福島県は必要戸数の85%が完成したが、緊急時避難準備区域内での建設予定もあり、一部は未着工のまま。
 がれきの撤去には時間がかかっている。環境省の6日のまとめでは、岩手、宮城、福島の3県での推計量約2300万トンのうち、仮置き場への撤去が終わったのは54%。他の自治体での広域処理が進まず、放射性物質に汚染されたがれきの処理方法や保管場所も決まらないなど、多くの問題が残っている。 




正直これだけの方がまだまだ大変な思いをしている。日本政府の対応の遅さ、ずさんさ、正直いい加減にしてほしいですね。前総理や政治家の方々は自画自賛ですけど、正直なんのって感じです。本当に頑張ってる方は、原発処理に直接あたっている人、こうしてる間もボランティアを続けてる人、がれきの撤去作業をしている人、多くの人を救った自衛隊の方、そして今も大変な生活をしている被災者の方々自身じゃないですか。

内輪揉めしてる暇があったら一人でも多くの方によりよい生活ができるよう尽くしてほしいですね。



鉢呂吉雄経済産業相も先日東京電力福島第1原発の周辺市町村を「まさに死の町です」と表現し、報道陣の一人に近寄って防災服をすりつける仕草をし、「放射能をつけたぞ、うつしてやる」などという趣旨の発言をしたしたとの話も出ていますね。謝罪したらしいですけど、許される話じゃないですよ。ニュースをみていて怒りを通り越し、悲しくなりましたよ。国のトップの方々の発言がこんなこととは・・・。言語道断。福島を愛して福島で育ってきたみなさんは泣く泣くその地を離れているというのに・・・。







【合同慰霊祭 遺族など2,000人以上が参列】


宮城・南三陸町では、合同慰霊祭が行われた。建物の屋上まで巨大な津波が襲い、30人以上の職員が犠牲となった南三陸町の防災対策庁舎には、11日朝も、花を手向け、手を合わせる人の姿が見られた。南三陸町の合同慰霊祭は、多い時で1,500人が避難生活を送った町の総合体育館で行われ、遺族や町民など、2,000人以上が参列した。
南三陸町の佐藤 仁町長は「復興に向けた道のりは長く、多くの苦難が待ち受けています。希望を捨てず、町民一丸となって、新たな街づくりを進めていくことを、皆様のみ霊の前に、お誓いを申し上げます」と述べた。
両親を亡くした阿部富宏さんは「おふくろ。あの時、あなたは、なぜ逃げなかったのですか。84歳の誕生日まで、あと3日だったのに。こんなにも突然に、帰らぬ人になるとは思いもしませんでした」と語った。
このあと、参列者による献花が行われ、犠牲者の冥福を祈っていた。





【いまだ辛い想いの日々】


◇生後8カ月の長男捜す日々 思い切り泣きたい
津波で父親を亡くし、母親と祖母、生後8カ月の長男の行方が分かっていない仙台市若林区の竹沢さおりさん(36)と夫守雅さん(43)。昨年7月、長男雅人ちゃんが生まれた。震災当日は名取市の実家に雅人ちゃんを預けていた。実家は津波にのまれ、1週間後に、父喜佐雄さん(64)の遺体と対面したが、母すみ子さん(61)、祖母ろくさん(92)、そして雅人ちゃんの行方が分からないままだ。

 守雅さんは「知らない人が見たら、2人暮らしの家にしか見えないでしょう」と笑った。確かにベビーベッドもなく、赤ちゃんを抱える家庭特有のミルクの甘いにおいもしない。だが、ここにかつて3人家族の笑い声があったことは、居間の一角に並ぶ雅人ちゃんの写真が教えてくれる。
 さおりさんが、2冊のアルバムを見せてくれた。雅人ちゃんと過ごした8カ月間の写真と思い出を記したスクラップブックだった。 日々の暮らしの中で雅人ちゃんが見せる笑顔。生後6カ月を祝うハーフバースデー。家族で温泉旅行に出かけたときの思い出……。「本当は大きくなってから一緒に見たかったですけどね」。さおりさんは、1ページずつ解説してくれた。
 さおりさんは取材の最中、雅人ちゃんのことを話すと笑顔も見せてくれた。しかし、雅人ちゃんの写真を見ることができるようになるにも、2カ月かかった。「どうして私たちだけ、家族が3人も見つからないんでしょう」。今も心に区切りはつけられていない。「遺体だったとしても、息子が見つかれば、思い切り泣くことができると思うんです」と話す。




【明日への希望】


 ◇長男が無事誕生、大沼さん「まず安城で再出発」
 愛知県の県営住宅に避難している大沼勇治さん(35)は7月、震災以来初めて福島県双葉町の自宅に一時帰宅した。東京電力福島第1原発から4キロの距離にある家は家財が散乱し、足の踏み場もなかった。防護服を身にまとい真っ先に探したのは、結婚指輪やアルバムなど「お金では買えないもの」だった。2時間後には町を離れなければならない。急いで荷物をまとめた。大沼さんは「故郷に別れを告げた思いだった。でも(自宅に帰ったことで)あの日から止まっていた時間がようやく動き始めた気がする」と話す。小学6年の時、原発を推進する双葉町の標語コンクールで、大沼さんが応募した「原子力明るい未来のエネルギー」が優秀賞を受賞。標語は町の中心街に掲げられた。一時帰宅の際、自分が考えたその標語が目に飛び込んできた。申し訳ない気持ちになったという。


 妻せりなさん(36)は震災発生当時、妊娠7カ月だった。福島県会津若松市の親類宅に一時身を寄せ、さらに3月末に安城市に避難してきた。6月20日、長男の勇誠ちゃんが生まれた。3360グラムだった。今、勇誠ちゃんは寝返りができるまで成長した。これまで3回の一時帰宅をした。そのたびに生まれ育った双葉町の様子をビデオや写真に収めている。避難対象区域となり、ゴーストタウン化した町。それを撮影するのは「震災や原発事故の現実を大きくなった勇誠に伝えるため」だという。
 故郷を離れたため会社を退職した。母親の土地に建てた賃貸アパートと自宅のローン1500万円が残る。貯蓄や補償金などを切り崩し、毎月15万円を返済している。故郷へ戻れるのかどうか。避難先で将来への不安は募る。
 だが、大沼さんはインターネットのブログに決意をつづった。「まずは安城で再出発。仕事が決まり、働き始め、慣れてきたら、気持ちも前向きになるはず……」と。


 ◇レストラン再び、野田さん「郡上の人に恩返しを」
 シェフの野田清太郎さん(43)が7月7日、岐阜県にオーガニックレストランを再オープンさせた。閉店を余儀なくされた先代の店は、福島第1原発から7・5キロの福島県富岡町にあった。
 故郷の福島の食材を生かす料理を作るため開いた。店は軌道に乗り始めた。ところが、開店から半年もたたないうちに震災に襲われた。「地震、津波、放射能……。信じられないことが目の前で起こった」。家族6人で名古屋に避難した。改装作業には、被災者支援の郡上市民がボランティアで手伝ってくれた。 「福島に帰れないつらさはあるが、福島でやろうとしていたことを、新たな地でやろうと決めた。お世話になった人たちに恩返しをしたい」と野田さんは言う。


 ◇募る望郷の思い
 福島県南相馬市から三重県鈴鹿市に避難した岩井幸夫さん(76)は、あっせんされた市営住宅で、妻の百合子さん(76)と2人で寄り添うように暮らしている。震災後、夫妻は福島県二本松市のスポーツ施設の避難所で3週間過ごした。生活がようやく落ち着いてきた今、思い出すのは避難所で会った他の被災者たちのことだという。
 夜中に聞こえてきた大人のすすり泣く声。疲れ切った親たちのかたわらで無邪気に遊ぶ子供たち。「被災者同士が支え合って仲間意識が芽生えた。皆どうしているのだろうか」
 岩井さんは東京電力の下請け会社で50年近く建設工事を担当。発が崩壊する様子をテレビで見た岩井さんは「一生懸命造ったものが簡単に壊れるなんて……。起きてはいけない事故だった。建設にかかわった一人として責任を感じる」と話す。望郷の念は捨てがたい。「年明けには南相馬に戻りたい」と夫妻の願いは日々、強くなっている。


 ◇「みんなが家族」妻子失った男性、前向く

にぎやかだった家族。そんな幸せが一瞬で奪われた。。高橋善夫さん(68)は妻や子ら4人を亡くした。あれから半年。涙に暮れた日々を乗り越え、同じ地区だった人が集まる仮設住宅の自治会長を引き受けた。

 地震直後、高橋さんは町内会長として避難を呼び掛け、津波に襲われる寸前に公民館に逃げ込んだ。しかし、母、姉、妻に加え、勤務先から帰宅しようとしていた次男も命を落とした。ずっと一緒だった家族4人が突然いなくなる。現実を受け入れられなかった。独立し、仙台市内にいて無事だった長男と安置所を回るだけの日々。妻の実家で泣きながら過ごした。誰とも会いたくなかった。「同情されても家族は戻ってこない」とふさぎ込んだ。

 仮設住宅の説明会に出たことが転機となった。「生きてたのか」。町内の顔見知りたちが無事を喜んでくれた。「みんな心配してるぞ」。そう言われ、避難所を回ってみた。そこで何度も聞かされる。「介護を手伝ってくれた」「世間話を聞いてもらった」。妻の京子さん(61)への感謝の言葉だった。

 京子さんは民生委員を務めていた。高橋さんがなる予定だったが、勤務時間が減ることを心配した職場から引き留められ、その代わりを引き受けた。面倒見が良く、気配り屋だった。38年前の結婚式。高橋さんの父は病床で出席できなかった。「花嫁衣装を見せに病院へ行こう」。京子さんの提案に驚いたが、父は目を細めて感謝した。20日後に亡くなったが、安らかな最期だった。京子さんの遺体は3月下旬に車の中から見つかる。いつも相談に乗ってあげていた女性と一緒だった。心配で様子を見に行き、逃げ遅れたのか。妻らしいな、と思った。

 「お父さん、後は頼んだよ」。京子さんから、そう言われているような気がした。自分も長く町内会の役員をしてきた。生まれ育った故郷と、そこで暮らす人たちの再生を手伝う。それが生き残った自分の役目なのではないか。「このまま終われない」と気持ちを切り替えた。7月、推されて約130世帯が入居する仮設住宅の自治会長になった。大切な人を失った入居者の気持ちが、高橋さんには分かる。「ここにいるのはみんな家族。家に閉じこもらず、声を掛け合おう」と伝えたかった。他の仮設住宅とは異なる決まりを作った。震災前の閖上は、朝市や祭りの度に団結する活気のある町だった。あのにぎわいを取り戻す一歩を、ここから踏み出したい。高橋さんはそう願っている。





【翌日誕生の小さな命 仮設の未来への「のぞみ」に】

東日本大震災の翌日、新たな命がひとつ、被災地に舞い降りた。悲しみばかり多い世の中で、少しでも未来への希望になってくれたら--。小さな愛娘に付けた名前は「希美(のぞみ)」だった。

 津波で肉親や自宅を失った岩手県陸前高田市の会社員、佐藤茂さん(44)と妻由美さん(38)の長女希美ちゃんは、3月12日に生まれた。2678グラムだった体重は半年で2.5倍に増え、寝返りもできる。暑さが残る仮設住宅。ひまわりが好きで、黄色い花柄が描かれたうちわであおがれるとニコニコ笑う。

 あの時、自宅にいた由美さんは11日後に出産予定日を控えていた。揺れの後、長男碧(あおい)君(5)を連れ、高台にある親戚の家に車で逃れた。隣の大船渡市で働く茂さんとは連絡がつかなかった。翌朝、腹痛で気分が悪くなり病院に行くと「この先手術室が使えるかどうか分からない。今なら大丈夫」と医師が言う。停電したが、自家発電で帝王切開の手術は可能だった。おぼれた人やけが人が次々に運ばれ、騒然とする病院で正午過ぎ、希美ちゃんは生まれた。「子どもと3人だけになったらどうしよう」。不安でいっぱいだった。
 同じころ、茂さんは家族の行方を捜していた。車は津波に流され、歩いて自宅に戻ると家はなくなっていた。避難所を訪ね歩き、ようやく親戚宅で娘の誕生を知る。だが、両親と同居していた兄昇一さん(当時47歳)は近所のお年寄りを背負って逃げる途中、津波にのまれ亡くなった。
 茂さんは6月から、元の会社で野菜の仕入れと卸の仕事を再開した。8月には大船渡市の妻の実家から陸前高田市の仮設住宅に移り、家族4人の新たな生活が始まった。「家に帰ると、妻と子がいてくれる。当たり前のことだけどほっとする」と茂さん。一緒に湯船につかると、希美ちゃんは喜んで叫び声をあげる。最近、水面をばしゃばしゃたたくようになった。そんな小さな変化がうれしい。
 震災の混乱が続く中で、お宮参りもしてやれなかった。記念写真をたくさん撮ってあげたかったが、カメラは流され、携帯電話で撮るのが精いっぱい。茂さんと由美さんは「娘が成長したら、大変な状況で生まれたことを伝えたい」と思っている。でも、「特別な重荷は背負わず、普通に育ってほしい」と願う。

 「赤ちゃんがいるんですね。何カ月ですか?」。仮設住宅の敷地を散歩したり、買い物に行くと、よく話しかけられる。希美ちゃんがみんなを笑顔にし、会話が生まれる。震災直後の悲しみの中では、笑顔で娘を抱くこともはばかられたが、少しずつ遠かった日常が戻ってきた。小さな命が、希望を運んでくれた。



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【被災地の子どもの笑顔と希望が宇宙へ】


宇宙開発の普及・啓発活動に取り組む財団法人「日本宇宙フォーラム」は23日、国際宇宙ステーション(ISS)へ運ばれる、東日本大震災で被災した子どもたちの写真や作品のデータを収めたDVDを宇宙航空研究開発機構(JAXA)に届けた。DVDには毎日新聞が宮城、岩手両県で撮影した子どもの写真50枚も収蔵。米スペースシャトル最後の飛行となる「アトランティス」で7月8日(日本時間9日未明)に打ち上げられる。

 同フォーラムは東日本大震災が起きたのを機に、被災地の子どもを力づけ、将来への希望を持ってもらおうと、子どもの写真や作品、メッセージをDVDに収め、ISSの日本実験棟「きぼう」に届ける計画を立てた。

 毎日新聞が被災地で取材した子どもたちの明るく、力強い表情をとらえた写真が評価され、同フォーラムから提供を依頼された。被災地の子どもの絵などとともに、宇宙へと旅立つ。




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あとがき


未来へ一歩づつ向かっていく為には人と人が支え合っていくしかないと僕は思います。

子供の笑顔や、人を想う気持ちは何ものにも代えがたい。子供達に明るい未来を残すためには自分達が見てきたこと、聞いた事、感じた事・・・。このひとつひとつを伝えていくしかない。それが自分たちに最低限できること。命の残り香を伝えていくこと。過去を語り伝えることと未来を創ることは同じなんですよね。


震災、復興の兆しという意味では現状まだまだなのかもしれません。でもこうした明るいニュースを見るたびに僕は希望を感じています。