今回は、発達障害でよく見られる片付けが苦手という特徴について、私の視点で何で片付けられないか、どうすれば片付けられるのかを書いていきたいと思います。

 

見出しで「片付けと整理」と分けて書かせていただきましたが、似たような言葉でもこれが苦手な身からすると全くの別問題なんです。私の場合、まぁ、どちらも苦手なんで同じようなものですが・・・。

私の解釈としては以下

片付けってのは「汚れたり散らかっているものをキレイにすること」→掃除

整理は「不要なものを除いたり、纏めて整える」→効率化

と、しましょう。

キレイに出来ないことにもワケがある

医学的に解明されているかはよく分からないので、私の見解ってことで。

私も何も考えずに散らかしているわけではないんです。超短期的に見れば合理的なんです。

ただ、ADHDの場合そもそも計画を立てることが苦手なので日々積もり積もってくるとどんどん整理できなくなりグチャグチャ~っとなってしまうんです。(自己弁護じゃないですよ。いや、ホント、マジで・・・)

具体例でいえば、

「洗面所に歯磨き粉や髭剃りが出しっぱなし。」→毎日使うんだからすぐ使える所に。

「着替えが部屋の隅で塊になっている」→ローテーションで着るんだからすぐ手の届く所に。

みたいな感じです。ADSでいう「ここに置かないとイヤ」みたいなこだわりでもあるのかもしれません。そんな中で日常ってのは当然、変化があったり、TPOが要されたりします。それが健常者では些細なことでも発達障害を持つ人にとっては、自分のこだわりや決まりごとから多かれ少なかれ外れてしまうと徐々に歯車が狂ってしまい段々と収集不可能になるイレギュラーになっていくんです。私の場合、それに対応しようとして領域を拡大してホントに手を付けられないことに・・・。新しいものを買って、整理できなくなった自爆パターンもありました。

どうやってキレイを保つか

月並みな対策ではありますが、私がキレイを保つためにしていること

まずは断捨離ですかね。ただし、処分している最中にも気がそれたり、処分するかどうかの判断で思考が回りすぎることもあるので家族と一緒に行なうといいかと思います。あと、集中力が切れてしまったら無理をせず一休み、疲れやストレスでそれ以降の掃除・整理にやる気が向かなくなってしまい当面凍結されてしまうので無理はしない方がいいでしょう。ただ、無計画だとそれはそれで返って散らかしただけになってしまうので「誰でも楽勝で出来る」くらいの目標はあった方がいいかもしれません。

こだわりがどこにあるか振り返る。私の場合では、散らかしてしまう場所にカゴを置いて、

とにかくソコに収めて領域を拡大しないことに注意。リビングや洗面所等、家族の共有スペースに私だけのスペースを作ってしまいましたがそこは家族の理解を得る必要があるかと。

 

文章にしてみるとこんなものですが、コツコツとやって2週間弱掛かりました。

私は収集癖もないし、買ったもの(洋服とか)への執着も薄いので容赦なく捨てていきました。

衣類の処分は大量にあって、親に「あんた着るものなくならない?」とか言われましたが、去年着たもの以外はサヨナラしました。ファッションにこだわりもないので思い切りもよかったですがオシャレな人は大変だろうなーとか思いました。

あと、10年位前の携帯電話の明細とか残ってました(w)

結論:持つものは使うものだけに。こだわりを理解してどうしたらそこに収まるかを考える。

→これに尽きるかと。送られてくる広告や各通知も溜まってしまいがちなので、問題なければすぐ捨てる。クレジットとかお金関係の明細は心配なので届いたら取り合えずファイリングしておく。(定期で届くものは決まっているかと思うので何個かファイルを作っておくってこと)

 

以上、「何を当たり前のことを」って思う人もいると思いますが・・・

他人が言うところの「当たり前」が「普通」に出来てたら、あんなに部屋散らかってないんです。

 

発達障害者の周りの方には、「部屋が散らかっているっている」とか事象だけを見ず、「散らかってしまうこと」といったプロセスや本人のこだわりにも目を向けてもらいたいし理解してほしいです。

「大人の発達障害」といった言葉を俗的に使っていますが、そもそものところで前回のブログでも書きましたが発達障害自体生まれつきのものです。大人になってから発達障害を発症するわけではありません。

 では、何で大人の発達障害という言葉が生まれたかというと、結局のところ大人になるまで見逃されてきたわけです。

子供のころはそれなりに勉強や人付き合いは何とかなっていて、大人になるにつれて人との繋がりやマルチタスクが増えてきて対処できない事が増えて、気分障害(うつ病)等の発症で精神外来を受診して、そこで発達障害と診断された、私の場合はこんな流れになるかと思います。「何で大人の発達障害は大人になるまで見逃されてしまうのか?」を今回書いていきたいと思います。

 

子供のころは見逃されやすい発達障害

 以前あげた記事で発達障害は①注意欠如多動性(ADHD)②自閉症スペクトラム(ASD)

③学習障害(LD)と書きましたが、LDがない場合でかつ、障害の程度によっては少し変わった感性の子ども、程度の認識で見逃されてしまう可能性があるんじゃないかと思います。

 LDに関しては知的障害無く、文字が読めない等の目に見える症状があるため基本的に発見できると考えて除外してもいいと思います。

 私の場合、小学校の通信簿を見返してみると「忘れ物が多い」「宿題を忘れる」等が6年間の内、それなりに書かれていました。つまり「お宅の子ども忘れ物多いんでお母さん何とかしてください」ってこと。

これは、問題点をどこに置くかで考え方が全然変わってきます。

①忘れ物がある。(物的に)

②忘れ物をしてしまう。(何で忘れ物をしてしまうのか?)

忘れ物を繰り返してしまう時点で「何で忘れ物をするのか」という点に視点を向け、それに対しての相談が教師・保護者間で出来れば、一歩前進できるかと思うんですが、難しいんでしょう。

基本的に親が気付くしかない?

教育課程や教師の研修の中でどこまで発達障害について学んでいるかはわかりませんが、生徒の日々の行動から教師が発達障害があるんじゃないかという疑いを持つことやそれを家族に発信すること自体が困難です。

障害って言葉にポジティブなイメージを持つ方っています?近年では教育・社会の中で障害は一つの個性とも言われていますが、いざ自分や自分の家族に降りかかってみると最初からポジティブに捉えることは難しく、ニュートラルに持っていくのでさえ時間を要します。

そんな中、教師も「お宅の子どもには発達障害の疑いがあります」とか医者でもないのにそんな無神経なことは言えないと思います。

もし、自分の子どもの通信簿や教師からの連絡で症状に当てはまることが繰り返し上がってくることがあるとすれば、受診するかはさて置いて、子どもの学校での様子を詳細にかつ継続的に聞いてみてもいいんじゃないかと思います。

学校での成績について

基本的に勉強が出来ないわけではありません。自分の興味分野に関しては凄まじい集中力を発揮することも多いので、人によっては学年トップレベルの成績を残されていたりもします。(私は万年学年中~中の上くらいでしたが・・・。)これも大人の発達障害が見逃される要因かと思います。

発達障害児の子育てについて

これは今自分が困っていることからになりますが、ここまで歳を取ると自分の興味分野を新たに見つけることって難しいんです。上でも書いた通り、自分の興味分野に関しては凄まじい集中力を発揮する人も少なくないです(私自身も気になったことは徹夜してでも調べたりするんですが、仕事に繋がることでは今のところ無いわけです。)

発達障害児に限らないことかもしれませんが、子どものころに興味を持ったものを親は頭ごなしに否定せず将来の糧になるように道筋(スキル取得や知識の入れ方について)を示してあげるくらいの手伝いは将来的に見れば小さなものではないと思います。

って書くと私が自分の特性を子供のころに見つけてくれなかったって親に感謝してないような文章になってしまいますが、捻くれずに大人になれたことを、産んでここまで育ててくれたことを本当に感謝しています。

 発達障害は生まれつきの障害と定義されています。

定義されてはいますが、医療が発展し続けている現在でも原因は不明な点がほとんどで

遺伝説や胎児期や出産時の感染・環境説等々仮説の域を出ていません。「生まれつき」であるといったところは定説というかほぼ決まりなのかな。

 

 アメリカのリチャード・フリードマン博士の研究ではADHDは狩猟時代から存在し、その衝動性こそが生存性を高めている。より衝動的に行動する人間ほど生存能力は高く、狩猟時代においてはADHDを持つ人は優れていた。と、されています。(原文を読んでいないというか英語も大して読めないので、情報の正確性に欠けているかと思いますので概要だけ)

 

※以下、個人的な勝手な解釈というか想像みたいなものなので悪しからず

狩猟時代に適応するためのコミュニケーション能力を排して、衝動性を尖らせる進化というかステータス極振りと言ったところなんですかね。で、私たちは一種の先祖返りだと。

現在に至っては農林水産業や狩猟等の第一次産業、製造業等の第二次産業、情報・流通等の第三次産業と人の生きる糧は多岐に渡り、生命に直結する衝動性の必要性は時代の流れとともに薄れていき、淘汰されたと。産業も多岐に渡れば当然必要なのはコミュニケーション能力なわけで、コミュニケーションに困難さがあるADHDを持つ人々は近代社会では翻って少数派の障害者とされたっていう解釈というか脳内補完をしてみたんですが、そう考えると我が事ながら救われたような気持ちになるというか何というか。

30歳で、「あなたは精神障害です!ADHDとASDです!」って医者に言われた時にはもうホントに先のことなんて考えられない文字通りお先真っ暗だったんですが、こういう研究を目にしてみると「別になんてことないんだ。異端でもないし、特別(special)ですらないんだ。」と強く思えるようになりましたね。大学では福祉系の勉強をして、福祉の仕事にも就いて、障害や病気等、生活していく上で課題を抱える方々に対しての偏見とかレッテルなんて持っていないつもりだったんですが、我が身に降りかかってみれば気持ちを切り替えるのにも随分と時間を割きました。自分の障害を受容する過程で小さくは無い話だったのでダラダラと書かせていただきました。

 

フリードマン博士におきましては自分勝手な解釈からの自己救済に博士の素晴らしい研究を引用してしまい申し訳ありませんでした。

 

この記事の最後に大事なことなのでもう一度書きますが・・・

中盤以下は完全に勝手な解釈と、そうだったらいいなーっていう希望的観測による根拠ゼロの補完です。博士の言いたいことはもっと深いだろうし全く違うことかもしれませんが、研究の概要だけしか分からない私が勝手ながらこう解釈して、自分の障害を受容する一因として、自分勝手に救われた気になったっていう、ちょっとヒドイ文章でした。