※このブログでは、生きていく上で大切な対象、例えば人、物、生き方やアイデンティティなどを失うこと(対象喪失)と、その後に起こる「グリーフ」という心の反応について書いています。
嘆きの谷をうろうろしていて、よく説明ができない感情に出会うことがあります。
グリーフというと、「悲しみ」「怒り」、あるいは「抑うつ」などの感情がよく取り上げられます。確かに、喪失の体験の中で多くの人が経験する大きな感情ですが、実際に嘆きの谷を歩いてみると、むしろ言葉になりにくい状態が多く存在していることに気づきます。
これらは、悲哀のモデルからは取りこぼされがちな感情です。例えばキューブラー・ロスが提唱した「悲嘆の5段階モデル」のチャートだけを見ていると、抑うつの次はまるで崖を一気に飛び越えるかのように「受容」が待っているかのような印象すら受けます。しかし、実際に行きつ戻りつする中で直面するのは、もっと繊細で、名付けがたい、地味な感情の連なりではないでしょうか。
前回のブログで取り上げた、「イライラ、警戒、焦燥感」もそういったものの一つでした。
今回は、さらに谷を進んだ時に意識しやすい、「モヤモヤ・気になる・忘れている時がある」という状態について、心理学の視点から紐解いていきます。
モヤモヤとはどのような感情でしょうか。
モヤモヤは、(前ブログで述べた)イライラとは質感が異なります。イライラには苛立ち、怒りなどが含まれますが、モヤモヤはどちらかというと違和感に近い感情です。イライラが嵐だとするならば、モヤモヤは霧のような状態といえるかもしれません。
感情のピークは過ぎているかもしれないけれど、喉に小骨が刺さっているような、絶妙な違和感が拭えない。このなんとも言い難い感情には、とても大きな意味があります。
「イライラ」が「モヤモヤ」になっていくことは、実はグリーフが「痛み」から「自分の一部」へと変化しようとしている大切なプロセスです。心理学的に見れば、バラバラになった自分の世界観を、新しい現実(大切な対象が失われた世界)に合わせて再構築しようとする、非常に高度な内面作業が行われています。
例えば、
・あの人がいない世界で自分はどう生きていくのか
・これからの生活の意味をどこに置くのか
といった問いが、心の中で繰り返し問われる事柄になっていきます。
喪失のこの段階では、「失われた現実」をどのように理解し、どのように自分の人生の中に位置づけ直すのかという作業が始まります。当然、短期間で終わるような単純な作業ではなく、日常生活の中での小さな経験や感情の揺らぎを通して、少しずつ進んでいく場合がほとんどかと思います。
「モヤモヤ」の輪郭がさらに崩れていくと、「気になる」という状態が訪れます。
気になる、とは、本来であれば普段の生活の中では特に意識されないはずのものが、意識の表面に浮かび上がってくる、という微妙なニュアンスを含んだ言葉です。不快感はゼロではないけれど、完全に忘れ去られているわけでもありません。
「モヤモヤ」の段階では、何が引っかかっているのかが自分でもはっきりしないことも多く、ただ全体として落ち着かない感じが広がっています。しかし「気になる」という感情は、広がりというよりは触れている、そこにある、という具体的な意識です。そのため、「気になる」という感情には、漠然とした不安定さよりも、もう少し落ち着いた意識の焦点が含まれています。
この変化は、喪失に関わる感情の整理がもう一つ進んだと捉えることができます。
痛みを忘れてはいません。ですが、痛みが覆い尽くす段階から、日常の中で「ときどき触れるもの」へと変化しているのです。
「モヤモヤ」や「気になる」中で、「悲しみ、怒り、抑うつ」などが、完全に過ぎ去ったわけではありません。
むしろ、悲しみなどが優勢になっている中に、時折イライラがあり、その中でモヤモヤする状態がたまに訪れる、という場合の方が多いかもしれません。
嘆きの谷の旅には、まっすぐ歩いてきたはずなのに、いつの間にか「ここは以前も見た景色だ!」という既視感を覚える瞬間が、何度もあるものです。
この部分をグリーフの本質として定義したのが、ストレイベとシュット(Stroebe & Schut, 2001)が提唱した「二重過程モデル」です。
「二重過程モデル」では、喪失を経験した人の心は、二つの状態のあいだを行き来するとされています。一つは喪失そのものに向き合う状態で、悲しみ、思い出し、意味を考え、失ったものの大きさを感じる時間です。もう一つは、喪失からいったん離れる状態で、日常のことに注意を向けたり、生活のリズムに戻ったりする時間です。これらは「喪失志向」と「回復志向」と言われ、二つとも等しく大切な対処法(コーピング)です。どちらか一方だけが続くのではなく、二つの間を振子のように揺れ動きながら進んでいくのが、グリーフそのものだ、と考えられています。
この二重過程において、心はずっと悲しみの中に留まる必要はなく、むしろ、
・掃除をしている間だけは悲しみを脇に置く
・何かに集中して喪失を忘れる
といった回避の時間があるからこそ、心は疲れ果てずに深い悲しみと向き合うエネルギーを蓄えることができると言われます。
「忘れている時がある」という状態は、まさにこの「回復志向」のコーピングとして自然と出てくるものです。
「ふと失ったことを忘れていた」という瞬間は、人によってさまざまな感情を呼び起こします。ある人にとってはほっとするような安堵を伴い、別の人にとっては戸惑いや罪悪感のような感覚をもたらします。「忘れていた」という体験そのものは同じでも、その意味づけや受け止め方は、死別、離別、愛着の対象との関係などによっても大きく異なってきます。
しかし、この「忘れている時がある」という状態は、回復における極めて重要なステップです。
グリーフは、悲しみが消えてなくなる瞬間が「あ、なくなった」というように感じ取れるのではなく、「悲しみに支配されない時間」が少しずつ増え、それを意識せずにいられる、という形で融解し始めることがとても多いからです。
このわかりやすい例として、哲学や臨床の現場で語られる「めまい」のエピソードを紹介しましょう。
私は喪失の神経反応として、めまいが長く続いた経験があり、一時期、慢性的な身体症状としてのめまいの情報を手当たり次第サーチしていたことがあります。その時に、複数の専門家が語っていた「めまいが取れる感覚」の説明に、とても納得したのです。
ひどいめまいに苦しんでいるとき、人はその苦痛に支配されています。しかし、めまいの終焉(治癒)は、「あ、今めまいが消えた!」と自覚する瞬間ではありません。気がつくと、数時間、あるいは半日、めまいがあったことを忘れて過ごしており、その事実に後から気づく。「そういえば、めまいがなかったな」・・・これこそが、めまいが良くなるときに多くの人が感じる状態なのですーーーと。
実際、自分の体からめまいがなくなっていく時に、私はこれを体感しました。そして、グリーフもこれと似ているなと感じたのです。
悲しみや痛みが消えたことが強く意識されるのではなく、「そのことを考えていなかった時間」が生まれることによって、時が過ぎたことが静かに感じられることがあります。
特別なことではないかもしれません。食事をしたり、散歩をしたり、人と話したり、仕事をしたりといった日常の活動かもしれません。
ですが、その間、喪失は一時的に心の前面から退き、またふとした瞬間に戻ってきます。「そういえば最近忘れていたな」と後から気づいたりもします。この往復は、人が長い嘆きを生き延びるための自然なリズムです。
「忘れている自分」に気づいたときは、心が新しい日常のリズムに再び乗り出し始めたサインなのです。
感情に名前を与えることは、その感情が存在してもよい場所をつくることです。グリーフの過程においては、説明しにくい違和感や揺れもまた、その人の歩みの一部です。だから私は、嘆きの谷で出会うさまざまな感情に、小さくても一つずつスポットライトを当てていくことには意味があると考えています。
そして、これらの感情が「人と同じである」必要はどこにもありません。
自分にとっての「モヤモヤ」「気になる」感情が上記と同じである必要はありません。もし違うなと感じたら、それはきっとご自身にとって大切な違和感だと思いますので、ぜひそれを尊重していただきたいと思います。
感情は、本質としてその人だけのものです。はっきりした答えが見つからなくても「まだよく分からないが、この状態でしばらく生きてみる」というような曖昧さこそが、心の再編成に必要な余白でもあります。細かい感情や状態にも光を当てることで、人は自分の体験をより正確に理解できるようになります。
揺らぎの積み重ねが、いつかあなたを嘆きの谷の少し腰を下ろせる場所へと、静かに運んでいってくれますように。










