海外生活・国際恋愛カウンセリング

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<メキシコから発信>海外生活・恋愛・結婚・ニューロダイバージェント等について

※このブログでは、生きていく上で大切な対象、例えば人、物、生き方やアイデンティティなどを失うこと(対象喪失)と、その後に起こる「グリーフ」という心の反応について書いています。

 

嘆きの谷をうろうろしていて、よく説明ができない感情に出会うことがあります。


グリーフというと、「悲しみ」「怒り」、あるいは「抑うつ」などの感情がよく取り上げられます。確かに、喪失の体験の中で多くの人が経験する大きな感情ですが、実際に嘆きの谷を歩いてみると、むしろ言葉になりにくい状態が多く存在していることに気づきます。

 

これらは、悲哀のモデルからは取りこぼされがちな感情です。例えばキューブラー・ロスが提唱した「悲嘆の5段階モデル」のチャートだけを見ていると、抑うつの次はまるで崖を一気に飛び越えるかのように「受容」が待っているかのような印象すら受けます。しかし、実際に行きつ戻りつする中で直面するのは、もっと繊細で、名付けがたい、地味な感情の連なりではないでしょうか。
 

前回のブログで取り上げた、「イライラ、警戒、焦燥感」もそういったものの一つでした。

今回は、さらに谷を進んだ時に意識しやすい、「モヤモヤ・気になる・忘れている時がある」という状態について、心理学の視点から紐解いていきます。


モヤモヤとはどのような感情でしょうか。

 

モヤモヤは、(前ブログで述べた)イライラとは質感が異なります。イライラには苛立ち、怒りなどが含まれますが、モヤモヤはどちらかというと違和感に近い感情です。イライラが嵐だとするならば、モヤモヤは霧のような状態といえるかもしれません。

 

感情のピークは過ぎているかもしれないけれど、喉に小骨が刺さっているような、絶妙な違和感が拭えない。このなんとも言い難い感情には、とても大きな意味があります。

 

「イライラ」が「モヤモヤ」になっていくことは、実はグリーフが「痛み」から「自分の一部」へと変化しようとしている大切なプロセスです。心理学的に見れば、バラバラになった自分の世界観を、新しい現実(大切な対象が失われた世界)に合わせて再構築しようとする、非常に高度な内面作業が行われています。

 

例えば、

 

・あの人がいない世界で自分はどう生きていくのか

・これからの生活の意味をどこに置くのか

 

といった問いが、心の中で繰り返し問われる事柄になっていきます。

 

喪失のこの段階では、「失われた現実」をどのように理解し、どのように自分の人生の中に位置づけ直すのかという作業が始まります。当然、短期間で終わるような単純な作業ではなく、日常生活の中での小さな経験や感情の揺らぎを通して、少しずつ進んでいく場合がほとんどかと思います。

 

「モヤモヤ」の輪郭がさらに崩れていくと、「気になる」という状態が訪れます。

気になる、とは、本来であれば普段の生活の中では特に意識されないはずのものが、意識の表面に浮かび上がってくる、という微妙なニュアンスを含んだ言葉です。不快感はゼロではないけれど、完全に忘れ去られているわけでもありません。

 

「モヤモヤ」の段階では、何が引っかかっているのかが自分でもはっきりしないことも多く、ただ全体として落ち着かない感じが広がっています。しかし「気になる」という感情は、広がりというよりは触れている、そこにある、という具体的な意識です。そのため、「気になる」という感情には、漠然とした不安定さよりも、もう少し落ち着いた意識の焦点が含まれています。

 

この変化は、喪失に関わる感情の整理がもう一つ進んだと捉えることができます。

 

痛みを忘れてはいません。ですが、痛みが覆い尽くす段階から、日常の中で「ときどき触れるもの」へと変化しているのです。

 

「モヤモヤ」や「気になる」中で、「悲しみ、怒り、抑うつ」などが、完全に過ぎ去ったわけではありません。

むしろ、悲しみなどが優勢になっている中に、時折イライラがあり、その中でモヤモヤする状態がたまに訪れる、という場合の方が多いかもしれません。

 

嘆きの谷の旅には、まっすぐ歩いてきたはずなのに、いつの間にか「ここは以前も見た景色だ!」という既視感を覚える瞬間が、何度もあるものです。

 

この部分をグリーフの本質として定義したのが、ストレイベとシュット(Stroebe & Schut, 2001)が提唱した「二重過程モデル」です。

 

「二重過程モデル」では、喪失を経験した人の心は、二つの状態のあいだを行き来するとされています。一つは喪失そのものに向き合う状態で、悲しみ、思い出し、意味を考え、失ったものの大きさを感じる時間です。もう一つは、喪失からいったん離れる状態で、日常のことに注意を向けたり、生活のリズムに戻ったりする時間です。これらは「喪失志向」と「回復志向」と言われ、二つとも等しく大切な対処法(コーピング)です。どちらか一方だけが続くのではなく、二つの間を振子のように揺れ動きながら進んでいくのが、グリーフそのものだ、と考えられています。

 

 

 

 

この二重過程において、心はずっと悲しみの中に留まる必要はなく、むしろ、

・掃除をしている間だけは悲しみを脇に置く

・何かに集中して喪失を忘れる


といった回避の時間があるからこそ、心は疲れ果てずに深い悲しみと向き合うエネルギーを蓄えることができると言われます。

忘れている時がある」という状態は、まさにこの「回復志向」のコーピングとして自然と出てくるものです。

 

「ふと失ったことを忘れていた」という瞬間は、人によってさまざまな感情を呼び起こします。ある人にとってはほっとするような安堵を伴い、別の人にとっては戸惑いや罪悪感のような感覚をもたらします。「忘れていた」という体験そのものは同じでも、その意味づけや受け止め方は、死別、離別、愛着の対象との関係などによっても大きく異なってきます。

 

しかし、この「忘れている時がある」という状態は、回復における極めて重要なステップです。

グリーフは、悲しみが消えてなくなる瞬間が「あ、なくなった」というように感じ取れるのではなく、「悲しみに支配されない時間」が少しずつ増え、それを意識せずにいられる、という形で融解し始めることがとても多いからです。

 

このわかりやすい例として、哲学や臨床の現場で語られる「めまい」のエピソードを紹介しましょう。

 

私は喪失の神経反応として、めまいが長く続いた経験があり、一時期、慢性的な身体症状としてのめまいの情報を手当たり次第サーチしていたことがあります。その時に、複数の専門家が語っていた「めまいが取れる感覚」の説明に、とても納得したのです。

 

 ひどいめまいに苦しんでいるとき、人はその苦痛に支配されています。しかし、めまいの終焉(治癒)は、「あ、今めまいが消えた!」と自覚する瞬間ではありません。気がつくと、数時間、あるいは半日、めまいがあったことを忘れて過ごしており、その事実に後から気づく。「そういえば、めまいがなかったな」・・・これこそが、めまいが良くなるときに多くの人が感じる状態なのですーーーと。

 

実際、自分の体からめまいがなくなっていく時に、私はこれを体感しました。そして、グリーフもこれと似ているなと感じたのです。

 

悲しみや痛みが消えたことが強く意識されるのではなく、「そのことを考えていなかった時間」が生まれることによって、時が過ぎたことが静かに感じられることがあります。

特別なことではないかもしれません。食事をしたり、散歩をしたり、人と話したり、仕事をしたりといった日常の活動かもしれません。

 

ですが、その間、喪失は一時的に心の前面から退き、またふとした瞬間に戻ってきます。「そういえば最近忘れていたな」と後から気づいたりもします。この往復は、人が長い嘆きを生き延びるための自然なリズムです。

「忘れている自分」に気づいたときは、心が新しい日常のリズムに再び乗り出し始めたサインなのです。


感情に名前を与えることは、その感情が存在してもよい場所をつくることです。グリーフの過程においては、説明しにくい違和感や揺れもまた、その人の歩みの一部です。だから私は、嘆きの谷で出会うさまざまな感情に、小さくても一つずつスポットライトを当てていくことには意味があると考えています。

 

そして、これらの感情が「人と同じである」必要はどこにもありません。

自分にとっての「モヤモヤ」「気になる」感情が上記と同じである必要はありません。もし違うなと感じたら、それはきっとご自身にとって大切な違和感だと思いますので、ぜひそれを尊重していただきたいと思います。

 

感情は、本質としてその人だけのものです。はっきりした答えが見つからなくても「まだよく分からないが、この状態でしばらく生きてみる」というような曖昧さこそが、心の再編成に必要な余白でもあります。細かい感情や状態にも光を当てることで、人は自分の体験をより正確に理解できるようになります。

 

揺らぎの積み重ねが、いつかあなたを嘆きの谷の少し腰を下ろせる場所へと、静かに運んでいってくれますように。

 

 

関連記事
「嘆きの谷をうろうろすること」
・モヤモヤ/気になる/忘れている時があるー嘆きの谷をうろうろすること(13)
 



 

 

 

 

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嘆きの谷をうろうろしはじめて、しばらく経った時、

グリーフの中で、恐怖や絶望の波がいったん退いたあとに、代わりに現れてくる感情があります。

それは、はっきりしない不満や、どこか張りつめたような警戒感です。

 

  • 訳もないイライラ
  • 落ち着かない
  • 空っぽな感じ
  • 焦りはあるのに、やる気が出ない、など

 

前よりは少しマシなはずなのに楽にならない・・・一体なんなのだろう・・・と不快に感じたり、

もう動き出せるはずなのに、動く気になれない、

時間だけ経って、全然前に進めていない・・・というように、自分を強く責めたりしがちです。

 

ですが、これは当初の圧倒的な危機から少し距離ができた矢先に、とても起こりやすい心身のあり方です。

 

グリーフの初期には、「グリーフ反応」と呼ばれる神経反応が起こることが多く、その後さまざまなグリーフの感情が続きますが、一旦警戒モードに入った神経が、緩むのには時間がかかります。


もう最悪の事態は起きていないかもしれない。でも、「また何かが起きるのではないか」「次も耐えられるとは限らない」というような怯えが身体の奥に残っています。

 

これは、神経がずっと構えているような状態で、心はまだ世界を安全だとは感じきれていません。

油断した瞬間にまた何かを失うのではないだろうか。

頭では最悪の事態は過ぎたとわかっていたとしても、神経はまだ「警戒を完全に解かないように」と命令を出し続けています。

 

同時に、以下のような焦燥感にも駆られます。

 

  • 止まっていた時間を取り戻さなねば
  • 早く元に戻らないといけない
  • 一日が急に長く、時間を持て余す(が、やる気は起きない)

 

交感神経が優位である状態では、瞬間の時間の流れは遅く、一日全体は短く感じられると言われています。

一瞬一瞬の状態は、永遠のように長く苦しく感じることもありますが、一方では神経が緊張状態にあり、休む/ぼんやりするという余白がほとんどないため、「気がついたら夜だった」のような感覚が生まれやすくなります。

 
神経が少し緩み始める過程で、時間感覚もゆっくりと変化し始めます。
一瞬で過ぎ去ったように思える一日が長くなり、予定を詰め込めるのではないかと錯覚することも増えていくかもしれません。
 

それまで、グリーフの中で止まっていたもの(時間、気力、判断力、未来の感覚)が、少しずつ動き始める一方で、神経はまだブレーキをかけています。

 

じっとしていることに耐えられないのに、動き出すエネルギーがまだ枯渇している。

これは、まさしくエンジンとブレーキが両方踏まれているような、狭間に落ちてしまったような辛い状態なのです。

 

その状態は焦りや苛立ちとなり、

 

「何もできなくなってしまった、こんな自分はダメだ」と、とても厳しい自己否定になってしまうこともありますが、ここでの「やる気がない」を、怠けと勘違いしてはいけません。

 

大事なことは、ついこの間まで心身に影響を受けるほどの大きな心の危機を、経験してきたのだということです。

あまり言われないことではありますが、グリーフにもバーンアウトがあります。

 

長い間、極度の緊張と負荷の中で、心と体は「サバイバル・モード」に切り替わり耐えてきています。

グリーフの直後では、感情を処理することや、次々と迫る現実に対応することに膨大なエネルギーが使われます。その最中には「疲れている」と感じる余裕すら持てないことがあるのです。

 

だからこそ、少し安全になったとき、心と身体がようやく「疲れた」と言い始めます。

サバイバルモードになることが、ダメだったのではありません。むしろ、正しくサバイバルしたからこそ、ようやく言えるようになる「疲れた」というふうに考えていただくといいかと思います。

 

外から見えにくく、本人も説明しづらいとは思いますが、決して異常なことではなく、むしろとてもよくある普遍的な状態だということを、知っておいていただきたいです。

 

 

 

絶望のただ中では、「止まっている」という感覚はありません。むしろ、頭も体も覚醒とシャットダウンを繰り返し、多大なエネルギーがサバイブするために使われています。

この時期を、丸ごと「止まっていた」時間と判断するのは、自分が過去を振り返って下しているだいぶ厳し目の評価です。


正確なところは、実際に止まっていたわけではないのですが、止まっていたように感じられる、感じることができるほど、自分がそこから離れて歩いてきたということではないでしょうか。

 

イライラや焦りが出てくるのは、ある程度嘆きの谷をうろうろした後に、ふと歩みを止めて、これまでの道を振り返る時間が出てきた証拠です。

 

必要なのは、イライラを消そうと頑張ったり、いきなりエンジンを最大にふかしたりすることではありません。

 

「いま、自分の中では、恐怖は少し後ろに下がったけれど神経はまだ周囲を見張っている」

この状態をそのものとして理解することです。

 

そして、これまで歩いてきた自分を、どうかたくさん労ってあげてください。

歩いてきたからこそ、今の景色が見えているのです。

 

イライラ/警戒/焦燥感/やる気がない状態は、大きな喪失を経験した神経が、まだ世界を測り直している状態です。

どこまで信じていいのか。
どこまでならオープンにできて、どこで閉じるのが安心か。

そういった調整は、この時期にとても大事な、時間をとって一歩一歩確かめて歩んでいくにふさわしい作業です。

調整が続いている間、心は不機嫌な形をとることがあり、それもグリーフの形。そう受け止めていただければ幸いです。

 

 

 

 

 

※このブログでは、生きていく上で大切な対象、例えば人、物、生き方やアイデンティティなどを失うこと(対象喪失)と、その後に起こる「グリーフ」という心の反応について書いています。

 

グリーフのプロセスの中心には、「悲しみ」と「嘆き」があります。
けれど、悲しみとはそもそもどんな感情なのか、立ち止まって考える機会は意外と少ないかもしれません。

 

私自身、この文章を書くために改めて辞書で「悲しみ」を調べてみました。
そこには、「大切なものを失うこと、別れ、失望などに際して起こる感情」とあり、読んだ瞬間、深くうなずくと同時に、少し驚いたのです。

定義に従えば、すべての悲しみは喪失から始まる、ということになります。
裏を返せば、失うことがなければ、私たちは「悲しい」という感情を知ることすらなかったのかもしれません。

 

けれど、人として生きていて、悲しみを一度も経験したことのない人はいないでしょう。
それだけ私たちの人生には、大小さまざまな「失う」という体験が織り込まれている。喪失とはなんて身近な存在なんだろうということに、私は改めて気づき感慨を覚えました。

 

心理学では、悲しみは内側の感情嘆きはそれを外に表す営みだと説明されることがあります。
悲しみは、最初から「完成された感情」として現れるわけではありません。

喪失の直後には、

 

  • どこか現実味がない

  • ただ呆然として、悲しいという気持ちが湧いてこない

 

のような状態が多くあり、衝撃や混乱の下で、まだ言葉も形も持たず潜んでいることがあります。

 

嘆くという行為は、その未分化な感情に輪郭を与えていくプロセスです。涙があふれる、胸が締めつけられる、言葉にする、儀式を行うといった「嘆き」の行為を通じて、輪郭のなかった苦しみが「悲しみ」という一つの形を持って感じられていきます。その中で、心は「自分は失ったのだ」「これは自分に起きた出来事なのだ」ということを咀嚼していきます。

 

かくして、「嘆きの谷をうろうろする」歩みが始まります。

 

私にとって悲しみは、この歩みのあいだ、ずっと鳴り続けている通奏低音のような感情です。
表面には怒りや苛立ち・無気力等が現れていても、その一番深いところには、静かに悲しみの層が横たわっている。そんなふうに感じられます。

 

「悲しみにくれる」「悲しみに沈む」という言葉があるように、悲しみには、静かに内側に留まり、長く続く性質があります。

怒りや罪悪感に対して、「くれる」「沈む」という表現はあまり使われません。
それだけ、悲しみは沈殿し、心の深部にとどまりやすい感情なのかもしれません。

 


 

 

 

 

大切な対象を失うということは、単に対象がなくなるというだけでなく、それとともに成り立っていた世界の形が崩れるという体験です。

 

その崩れを心が感じ取り、応答している状態が悲しみ/嘆きです。

その中には


・もう戻らないという事実
・取り戻せない時間
・叶わなかった可能性
 

が含まれています。だからこそ、嘆きはどうしても重く、ずっしりと感じられるのです。

 

は、その重く沈んだ悲しみ/嘆きに、流れるという形を与えます。

 

泣くことは決して楽な行為ではありません。涙が出るときには、抑えていた現実や感情と、必ずどこかで触れ合っています。それでも、泣いた後にかすかな安心感や「やりきった」ような感覚が生まれることもあります。


泣くと疲れる、泣いたあとぐったりする。
それは、心が感情に形を与えるという大きな仕事をした証でもあります。

一方で、泣けないことの苦しみもあります。

  • 泣けない自分はおかしいのではないか

  • 本当は、たいして悲しんでいないのではないか

そんなふうに、自分を疑ってしまうこともあるかもしれません。

 

けれど、泣けない状態は、多くの場合、泣くにはまだ危険すぎる場所に心がいるという意味です。
感情に触れたら崩れてしまうから、今は踏みとどまっているだとしたら、それもまた心の大切な働きです。

 

嘆きには、その人なりのタイミングがあります。
心が壊れないように守っているとき、無理に涙を引き出す必要はありません。安全だと感じられて始めて、自然に動き出す感情もあるのです。


たくさん泣いたあと、少し呼吸がしやすくなったり、胸のつかえが和らいだりすることがあります。
これを「カタルシス」と呼ぶことがありますが、それは悲しみが発散されて無くなったという意味ではありません。

泣くことで起きているのは、感情の発散というより、感情と身体の再接続です。

抑えられていた感覚が流れ、張りつめていた緊張が緩み、「感じても生きていられる」という経験が身体に残ります。それが少しの安堵感や静けさとして感じられるのです。

 

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喪失を人生の冬に例えたエッセイ『冬を越えて』を書いたキャサリン・メイさんにとって、涙は、悲しみの中で無理に絞り出されたものではなく、張りつめていたものがほどけたときに自然と現れたものでした。

メイさんは、息子さんの不登校という体験を通して、こう綴っています。

 

子どもの世界には、からかいやいじめが蔓延している。(…)今の自分がその立場だったら、とても耐えられそうにない。けれど、子どものころは耐えていた。そうするしかなかったから。

けれども、幸せが能力なら、悲しむことも能力だ。子どものころ、わたしたちは悲しみをスクールバッグに押し込んで、そんなものはないふりをすることを教えられる。

けれど大人になると、そこから聞こえる悲鳴を無視できなくなることがある。それが人生の冬だ。悲しみを積極的に受け入れ、それを認める訓練をする時間。勇気を出して自分の経験の最悪の部分を見つめ、それを癒すことに全力で取り組む時期でもある。冬はわたしたちの直感を研ぎ澄まし、自分がほんとうに求めているものをわからせてくれる。

 

いよいよ息子に冬の過ごし方を教えるときが来た。(…)私とバートは暗い時をいっしょに旅した。(…)ともに怒り、ともに悲しんだ。ともに不安と闘った。眠ることで心配を追い払い、眠れなくなると、昼夜を逆転させた。

 

(…)平日に子どもと連れ立っていることで、わたしは人目を気にしていた。(…)声をかけてきたのは、近くのテーブルにいた女性グループのひとりだった。「あなたも自宅学習者(ホーム・スクーラー)?」

気がつくと、私はこれまでの人生で起きたこと全部ー少なくとも、この数ヶ月に起きたことを洗いざらい打ち明けていた。母親としての無能ぶりをあきれられるだろうと思っていたのに、共感の笑みやうなずきが戻ってきた。「このテーブルにいるみんなが、まったく同じことを経験してきたわ」

 

私は泣きそうになった。自分だけじゃなかったんだ。

 

(キャサリン メイ、 石崎 比呂美 (訳)『冬を越えて』  K&Bパブリッシャーズ、2021、Katherine May 'Wintering: The Power of Rest and Retreat in Difficult Times', 2020)

 

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この場面で流れかけた涙は、何かが解決したからではありません。

「自分だけではなかった」「この重さを生きているのは、私一人ではなかった」

そう感じられた一瞬、孤立の中で固く凍っていた悲しみがほんの少し緩んだのだと思います。

それは、悲しみごと受け止められたという経験でした。

 

嘆きは、失ったものが確かに大切だったことを、心と身体で確認する営みです。

泣いても、泣けなくてもいい。
嘆きの形は人それぞれです。
 

今、嘆きの谷の中にいる人にも、その歩みが尊重されますように。

 

 

 

 

※このブログでは、生きていく上で大切な対象、例えば人、物、生き方やアイデンティティなどを失うこと(対象喪失)と、その後に起こる「グリーフ」という心の反応について書いています

 

喪失はときに、「奪われた」「見捨てられた」という形で体験されます。

 

  • 突然の死別や離別によって何の説明もないまま関係が断ち切られた

  • 病気や事故、制度などによって人生の方向を余儀なくされた

  • 努力して築いてきたものが自分の意思とは無関係に失われた、など。

     

「何も悪いことをしていないのに、なぜこんなことになったのか、許せない」という、正義と本能に根ざした感情が、怒りや恨みです。

 

怒りの感情は、多くの人にとって扱いにくい、厄介なものと感じられがちです。
できれば感じずに済ませたい、早く消してしまいたいと思われることも多いです。

 

ですが、グリーフのプロセスにおいて「感じてはいけない感情」は本来ありません。
どの感情も何らかのニーズに根ざして生まれており、本人にとっての意味があるからです。

以下では、怒りを無理に肯定するためではなく、喪失の中で生まれる怒りが、どのような役割を果たしうるかの一側面について考えてみたいと思います。

 

怒りは時にとても重要な役割を果たす感情であると私は考えています。

以下、2点の例を挙げて解説します。
 
 
  • グリーフの中にいる人が、絶望、無力感、罪悪感を長く抱えてきた場合

     

グリーフの中で、長いあいだ絶望や無力感、自責を抱えてきた人が、ある時点で怒りを感じ始めるとき、それは何らかのターニングポイントを示唆しています。

 

自責が自らの内側に向けられた怒りであるのに対して、他責は「自分は尊重されるべきだ」という気づきに基づく、外側に向けられる怒りです。この「自分は大切にされるべき」という認識は、自尊心が回復していく上でとても大切な通り道です。怒り/恨みは、他者との関わりを前提とした感情になっている点でも、他の感情と大きく異なります。それまで内側で完結していた感情が、怒りをキッカケに動き出し、嘆きの谷を歩み続けていく大きな原動力になることが、実際にカウンセリングの場ではよく見られます。

 

絶望や自責にいる状態で、人は本来自分のものではない責任や、過剰な責任をも引き受けがちになっています。そこから離れるときにも、怒りが立ち上がってきます。怒りは今の自身に必要のない心の負荷を手放そうとする心の動きでもあるのです。

 

  • 抑圧・暴力・不正・侵害に対して湧き上がる正当で倫理的な怒り

 

怒りは、これ以上傷つけられない、ここから先は踏み込ませない、という内なる境界線の発動です。自分を脅かす存在があるときに、自身(あるいはより弱い存在)を守るための「正当な尊厳を取り戻す怒り」を、心理学ではSacred rage(聖なる憤怒)と呼ぶことがあります。

 

分析心理学では、怒りは抑圧されると影(シャドウ)として歪み、意識化されることで力に変わると言われますが、Sacred rage は、それまで無意識に沈められていた怒りが、価値と意味を持って意識に浮上した状態と考えられます。

それはしばしば「魂の防衛反応」「怒りによる尊厳の回復」などと説明され、当事者が人生を再構築していくための大きな力になります。

 

上記のいずれの場合も、怒りの感情はいわば自分への信頼を取り戻すプロセスの一部になっています。

 

ただし、怒りを感じなかったり、怒り以外の感情が長く続く場合も、同じように大切なプロセスを生きているので、絶対にないといけないというわけではありません。

 

また、怒り/恨みはとても強い感情なので、怒りの最中に「これは大切な感情だ」と感じられることはほとんどありません。

 

むしろ、

  • 苦しさ

  • 消耗

  • 落ち着かなさ

  • 我を忘れる感覚

 

を伴い、「何も感じなかった頃の方が楽だった」という声もよく聞かれます。

 

さらに、怒りは抑うつのように感覚を鈍らせるのではなく神経系を活性化させるため、「眠れない」「落ち着かない」「喉に何かがつかえている」など、身体的にも辛い状態として現れます。

 

怒りが尊厳の感情であるということと、怒りが辛いという事実は、同時に成り立つと私は考えています。重要なのは、意味を感じられなくても自身を責めないで良いということ、怒りを感じている自分がいるとを知ること、そしてそれが苦しいという感覚も、正当なものとして扱うことです。

 

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2026年1月、私は「怒り待ち」をしていました。

それまでの経験から、私は自分の怒りが抑圧されやすいことを知っており、抑圧されるとうつ状態に留まる傾向にあることを知っていました。喪失後に漠然と「運命」や「人生」について怒りは出ていましたが、私のグリーフは人災だったため、「然るべき対象」つまりこの大元となる人物に正当な憤怒を抱くことが必要だと感じていました。

 



ある日、長く休んでいたオンラインのサポートグループに参加し、自分のグリーフについて聴いてもらいました。その後、別の参加者さんが、街で逢った人物に対して感じたとても激しい怒りをシェアしはじめました。それを聴きながら、私は「そうだそうだ!」「あなたの言っていることはもっともだ!」と心の中で応援している自分がいることに気づきました。人の怒りに同調することで、自分の中にも「怒りの芽」があることを確認できたのです。

それから数日後、私は白い紙を用意し、怒りの言葉を書き始めました。どんな言葉であっても自己批判をせずに、しっかり恨み、しっかり憤ることを心がけました。呼吸が浅くなり、胃がせりあがってきて苦しくなるのを感じました。あまりに苦しくて5分と持ちませんでしたが、永遠に感じられる時間でした。

 

この後も怒りは突発的に、朝起きてすぐや、犬と散歩している時や、寝る前など、いろんな時間にやってきました。その度に、ああ、怒りが来ているなと感じながら「私は私のままでいい」と言い続けました。

 

 

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怒りの感情は、出口を求めやすい感情でもあります。
そのため、「感じること」と「外に出すこと(ぶつけること)」が混同されがちです。
 
出口を間違えると、怒りは
  • 攻撃

  • コントロール

の手段になり、本来助けが必要なのにも関わらず、人との関係を壊し孤立する要因になります。


グリーフで特に多いのは、行き場のない怒りです。
例としては、
 
  • すでに関係が失われている・変質している(死別、離別、幼少期の親との関係など)

  • 話しても聞き入れてもらえない、「言っても無駄だ」と感じる

  • 言うことが身の危険につながる、など。

 

こうした相手に対する怒りは、心が「感じても無駄」「危険だ」と判断し抑圧されてしまったり、代わりに身近な人やモノが八つ当たりの対象になったりすることもあります。

 

大切なのは、怒りを悪者にすることではなく、自らの怒りを理解しようとする姿勢かと思います。

 

  • 本来誰に向けられた怒りなのか
  • 怒りの下にどんな感情があるのか
  • この怒りを通して自分が大切にしている価値は何か
  • どのような表現方法を選びたいのか、など。

 

カウンセラーとしては、怒りの安全な出口設計(表出の形)を準備することをお勧めします。

  • 紙に書く
  • カウンセラーと話す

  • 自分の怒りについて話したいので、聞いてほしいと頼む、など。

 

無理やり処理しようとしなくてかまいません。まずは存在を許すことが大切です。

 

怒り/恨みがあるということは、それだけ大切なものがあったということ。
その大切なものの中に、自分自身も含まれていて良いはずです。

 

もし、「怒りを出したい」「怒りを持て余している」などがありましたら、ご相談ください。

怒りの炎を、自らを焼くためではなく、未来を照らす灯火に変えていくお手伝いができれば幸いです。

 

 

 

 

 

※このブログでは、生きていく上で大切な対象、例えば人、物、生き方やアイデンティティなどを失うこと(対象喪失)と、その後に起こる「グリーフ」という心の反応について書いています。

 

大きな喪失を経験したあと、多くの人が口にする感情があります。
それは、罪悪感や後悔です。

 

  • もっとこうすればよかった
  • なぜあの時気づけなかったのだろう

 

頭では「仕方がなかった」「どうにもならなかった」とわかっていても、心のどこかで自分を責める声が止まず、繰り返し考えたりします。

 

この罪悪感や後悔は、喪失を心の中で処理しようとするプロセスの一部と考えられています。

 

喪失に直面したとき、私たちはまず「そんなはずはない」という強い拒絶とショックの中に放り込まれます。 

「人生はこんなふうに崩れるはずじゃなかった」 そう叫びたくなるほど、世界は理不尽で、無慈悲に感じられます。


この「信じられない」状態から、事態を受け止める過程において、脳は納得できる説明を強く求めます。

なぜ、こんなことが起きたのか


その過程で最も自然に現れるのが、

「あのとき、こうしていればよかったのだ」
「自分の判断が甘かったのだ」
「私がもっと〇〇だったらこんなことにはならなかった」

という自己に向いた理由づけです。


心理学的な側面として、人は「自分の力ではどうにもならなかった(無力だった)」と認めるよりも、「自分のせいでこうなった(自分に原因がある)」という理論づけを選ぶことがあります。

というのも、「自分のせい」なのであれば、世界は自分でコントロール可能な範囲にとどまるからです。

 

世界が予測不能で、根本的に「自分の力ではどうにもならない」場所と考えることは、大きな恐怖を伴います。

「自分がこうしていれば防げたはずだ」という考えは、世界の無秩序さや不条理さを、自分の内側に引き取ることで、心の安全性を保とうとする知的な働きでもあります。決して間違った反応ではありません。

 

一方で、罪悪感にはとても辛い側面もあります。
罪悪感は、罰につながりやすい感情です。

「自分は責められて当然だ」
「苦しんでいなければいけない」
「幸せになってはいけない」

そうした形で、自責の念が強まっていくと心や身体を追い詰めてしまうことがあります。

実際は、ハラスメント、暴力、裏切り、詐欺、理不尽な別れなど、明らかに被害を受けた立場であっても、「見抜けなかった自分が悪い」「自分にも落ち度があったのでは」「なぜ抵抗できなかったのか」などと、罪悪感を抱えることがあります。

 

ですが、その感情が出てくるからといって、本当に自分に責任があるとは言えません

心がそう感じているという事実と、現実の責任の所在は分けて考える必要があります。

 

私は、傷ついた心を抱えて生き延びたサバイバーさんが、ご自身を罰するのを聞いていると心が痛みます。

感情としての罪悪感は、とても苦しいものです。それがたとえ誠実さに由来するものであっても、自分を責め続ける形になると、心は深く傷つきます。

 

さらに、あまり語られにくいのが恥の感情です。

 

「こんなことになって恥ずかしい」

「人に言ったら責められてしまう、馬鹿にされる」、など。
 

恥の奥には「弱っている自分を知られたくない」という切実な防衛があり、再び傷つかないために心が自分を守ろうとします。
その恥が呼び覚ますのは今回の出来事だけではなく、多くは過去に経験した痛みや、理解されなかった悲しみです。グリーフの上に、さらに別のグリーフが折り重なるのです。


このようにして、人は多層化したグリーフを生きることになります。その強い感情は人を黙らせ、孤立させ、必要な支援から遠ざけてしまいます。

 

恥の感情が強くて言葉にできないとき、無理やり語ろうとする必要はありませんが、自分に向けてできる小さな関わり方はあります。

 

たとえば、「いま起きているグリーフのプロセスはとても複雑なものなのだ」「急がなくていい」と自分に言ってあげるだけで、心の中では動きが起こっています。

それは、出口のない自罰から息をつくための、大きな一歩になるのです。

 

 


 

 
罪悪感にはいろいろな背景と意味があるものです。

ときに罪悪感は、失ったものとの最後のつながりのように感じられることもあります。

 

どうでもいい相手や事柄に対して、私たちは罪悪感を抱きません。 自分を責める声があるとき、その奥底には「大切にしたかった」「守りたかった」という切実な願いが隠れています。罪悪感とは、行き場をなくした愛の形でもあるのです。

 
グリーフ(悲嘆)のプロセスにおいては、必ずしも感情を正論でねじ伏せることではなく、

 

「なぜ、こんなにも自分を責めているのか」
「この罪悪感は何を守ろうとしているのか」

 

そう問いながら、絡まった糸をゆっくりと解きほぐしていただく時間が大切です。

 

そして、責める声に完全に飲み込まれず、必要以上に自分を傷つけない位置を一緒に探していくことが、嘆きの谷の旅になっていくことでしょう。

 

いつか、自分を責める声が少しずつ静まり、頑張ってきたご自身に、ほんの少しの優しさを向けられる日が来ますように。

 

 

 

 

 

※このブログでは、生きていく上で大切な対象、例えば人、物、生き方やアイデンティティなどを失うこと(対象喪失)と、その後に起こる「グリーフ」という心の反応について書いています。

 

大きな喪失の後、

 

  • 世界から切り離された/取り残されたように感じる

  • 自分の居場所がない

  • 世界が色あせて見える

  • 外に出たくない、人と会いたくない

 

のような感覚がやってくることがあります。

 

周囲は以前と変わらないように見えるのに、自分だけがガラスの向こう側にいるような感じだったり、自分が自分でないような、不思議な距離感が生まれることもあります。

 

この状態は、「離人感(離人・現実感喪失)」と呼ばれ、解離性障害の一つとして説明されています。

 

離人感という言葉を聞くと、

 

「深刻な問題なのでは」「おかしくなってしまったのでは」


と不安になる方もいるかもしれませんが、グリーフの文脈で生じる離人感は、心が強い衝撃にさらされた時に起こりうる自然な反応です。

 

解離は、簡単に言えば、耐えがたい体験から距離を取るための心の働きです。

現実や感情をそのまま受け止めるにはあまりにも痛みが大きいとき、心は一時的に「切り離す」ことで、自分を守ろうとします。

離人感は、その一つの現れ方と考えられています。

 

喪失がここまで深い感覚の変化をもたらす理由の一つに、愛着の存在があります。

私たちは、長い時間をかけて人や関係、役割、場所、価値観といったものに愛着を結び、それらを自分自身の一部として生きています。

愛着の対象を失うということは、直接的もしくは比喩的に、自分と一体化していた何かを失うことです。


「大切な人を失った」
「関係を失った」
「信じていたものを失った」
 

というだけでなく、

 

「自分が自分であるための一部を失った」

という体験でもあるのです。

 

自己への感覚が揺らぐと、その自己が属していた世界との関連性も、同時に失われます。

 

そのため、これまで当たり前だった見慣れた風景や人間関係が、急に「自分とは関係のないもの」のように感じられたり、外の世界は変わっていないのに、自分だけが世界に足場を失ったような感じになることがあるのです。

 

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2025年の夏、私は入院している愛犬に会うため、急ぎ足で道を歩いていました。

 

そのとき、横をお祭りの行列が通り過ぎていきました。カラフルなトラック、耳をつんざくドラムの音、笑顔で手を振る人たち。そこには、ただ楽しさと高揚感だけがありました。

 

普段だったら、私もニコニコしながら観客の一人になり、動画でも撮っていたと思います。

でもそのとき、同じ時間と空間にいても「私はここに属していない」という感覚が強く胸に迫ってきました。

 

内側では大切なものが崩れ落ちているのに、外の世界は何事もなかったかのように続いている。
その隔たりの中で、自分だけが別の場所にいるような、強い離人感を覚えました。

足は動いていましたが、体は宙に浮いたようにふわふわしており、音や光は、いつもより大きく耐えがたく感じられる一方、何か目に見えない膜をはさんで届いているようでもありました。

 

 

まるで、海の潮がザーッと引いていくような、今にも自分だけがスッと別の次元に溶けて消えてしまうような感覚。この離人感は波のように強まったり弱まったりしながら、その後も続いていきました。

 

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離人感とは、自己と世界の結びつきが一時的にほどけてしまった状態と言えるでしょう。

その中には、自己への信頼感が揺らぎ、「自分は何者として生きていくのか」「何を拠り所に生きていけばいいのか」がわからなくなってしまう、宙ぶらりんの自分がいます。

 
グリーフの最中に、
  • 外に出る気がしない

  • 人と話すエネルギーがない

  • 一人でいたい

と感じるのは、とても自然なことです。

 

自分の心が冷たいからでも、社会性が失われたからでもありません。

 

外の世界は、


「何事もなかったかのように続いている世界」「説明や振る舞いを求められる世界」


であることが多く、離人感はそのズレから一時的に身を守るための距離とも言えます。

無理に外の世界と関わらないことで、最低限の安全を保っているのです。

 

グリーフの中で離人感がある場合は、まずは、自分が安全だと感じられるパーソナルスペースに留まることがとても大切だと感じています。

 

布団の中

一人で過ごせる場所

刺激の少ない時間

その時の気分が受けつける音楽、映画、動画、ゲームなど。

 

そこから少しずつ、心が大丈夫そうだと感じた分だけ、世界との距離を調整していきましょう。

 

さて、グリーフの反応は一様ではないので、すべての人が世界から切り離されたように感じるわけではありません。

 

逆に、

  • 人恋しくてたまらない

  • 誰でもいいから、ずっとそばにいてほしい

  • 一人になるのが怖い

  • 寂しさが耐えられない

のような感情が強く出る場合もあり、どちらが正しい、ということはありません。

 

人混みの中にいたくて繁華街を長時間さまよったり、公共の乗り物に乗り続けたり・・・という場合もあります。

 

距離を取りたくなる感情も、つながりを求める感情も、どちらも喪失の中で生まれる自然な反応です。

この2つを両方感じていたとしても、全くおかしいことではありません。

 
人と一緒にいたい気持ちが強くあっても、グリーフで傷ついた心を抱えて人と関わることを、「まだ早い」と心が判断して、自然とブレーキがかかることもあります。
 
「自分はどうなっちゃったんだろう」
「どうしたいのか自分でもわからない」
 
と戸惑うかもしれませんが、無理に答えを出す必要はないと思います。
心は、言葉になる前の場所で、少しずつ状況を消化して次の一歩を探しています。
 

グリーフの中では、世界に無理やり戻ることではなく、心が安心できる場所から少しずつ関連を取り戻していくプロセスに価値があります。

 

離人感の中にいるなら、無理に元に戻ろうとしなくても大丈夫。

人恋しさが強いなら、それを恥ずかしいと思わなくても大丈夫。

その時々の心の動きに「そう感じる理由がある」と認めていただければと思います。

 

次回は、「罪悪感と後悔」の感情をクローズアップしていきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※このブログでは、生きていく上で大切な対象、例えば人、物、生き方やアイデンティティなどを失うこと(対象喪失)と、その後に起こる「グリーフ」という心の反応について書いています。

 

グリーフの中にいるとき、自分の感情がよくわからなくなったり、逆に、抑えきれないほど強い感情に飲み込まれてしまったりすることがあります。

 

悲しみ、憤り、罪悪感、抑うつ、無力感など。

 

「こんなふうに感じる自分はおかしいのではないか」

「もっとコントロールできるべきではないか」

と思ってしまうこともありますが、感情は本来とても個人的なもので、この状況ならこう感じるのが正解、という決まりはありません。

 

あなたの感情は、自分だけにわかる正当性があるもので、誰に合わせる必要もありません。

よくわからないけれどいつもと違う

というだけで十分な時期もあります。

 

また、感情は「心の空模様」とはよく言ったもので、

晴れたり、曇ったり、突然嵐になったり、しばらく何も感じないような空白の時間が訪れることもあります。

同じ空が、同じ状態のまま固定され続けることはほとんどなく、理論的には、感情は「消えていくもの」「形を変えていくもの」だと説明されます。

 

ただ、グリーフの渦中にいるときには、
 

「本当に変わるのだろうか」「このままずっと続くのではないか」

 

のように、感じられることもあり、それも自然な流れです。

 

「変わると信じられない」という感覚も、ちゃんとした感情の一つ。
それは喪失のただ中にいる心が生み出す、正直な反応です。

その感情も含めて、今、自分が喪失の途中にいるのだと理解できたら、それで十分すぎるくらいです。

 

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喪失後の感情の移り変わりについては、さまざまな考え方がありますが、
ここでは一つの説として、精神科医キューブラ・ロスが提唱した「悲哀の5つのプロセス」を紹介します。

 

1.否定と孤独

信じられない、受け取れないという感覚。
周囲とのズレから孤独を感じ、「なぜこうなったのか」という説明を探し続ける。
不安や焦り、落ち込みが強くなることもあります。

 
2.怒り

「なぜ自分がこんな目に」という憤り。
運命や身近な人、社会、自分自身に怒りが向くこともあります。

 
3.取り引き

何とか取り戻せないかと模索する段階。
後悔や自責、「もっとこうすればよかった」という思いが繰り返されます。

 
4.抑うつ

避けられない現実を前に、無力感や虚無感に沈む状態。
悲しみや孤独が深くなります。

 
5.受容

喪失を人生の一部として静かに抱えられるようになる。
安らぎや落ち着きを感じる瞬間が増えていきます。

 

 

これらの感情は別々に現れるものではなく、順番通りに進んだり、一気に切り替わったりするものでもありません。
同時にいくつも感じることもあれば、行きつ戻りつしながら、ある場所に長く留まることもあります。
 

やがて、喪失を人生の一部として抱えられる瞬間が少しずつ増えていきます。それは「乗り越えた」というより、「一緒に生きられるようになった」という感覚に近いのかもしれません。

 



この説が役に立つのは、数か月、あるいは数年という長い時間の流れの中で振り返ったとき、こうした移り変わりが確かに見えることがあるからです。

ただし、渦中にいる当事者がこのプロセス通りに、着々と前に進んでいると意識するかというと・・・そうじゃない場合が多々あるのも事実です。

 

私が普段、聴かせていただくお話でもそう感じますし、

私自身、特にかつてうつ病を経験した時のことを思い出しながら書いていますが、その中で「抑うつから安らぎに向かっている」という実感を持てたことは、ほとんどありませんでした。
理論の図で見るほど、気持ちの現実は整然とはしていなかったという思い出があります。

 

複数の感情を同時に抱えつつ、前進の手応えを感じるよりも、やり場のない気持ちの行き場を探して「やはりまだ心が痛い」という感覚とともに日々を過ごしていくことのほうが多いのではないでしょうか。

 

そのうち、ふとした瞬間に「あれ、少し楽になったかもしれない」と感じることもありますが、また強い感情が戻ってきて、「気のせいだったのか」とガッカリする。そんな行きつ戻りつを何度も繰り返します。

 

そして、ずっと後になって振り返った時、「ああ、確かに以前とは違う場所にいる」と気づくこともある。

グリーフの歩みとは、そうしたものなのかもしれません。

 

それでも、このプロセスは「こう進まなければならない道筋」ではなく、喪失を理解するための一つの見取り図として知っておくと役に立ちます。

 

喪失の後にこのような気持ちが訪れるのは自然だし、人類に普遍的なことでもある。

そういう理解をもとに、嘆きの谷を歩く道具箱に、そっと入れておいていただきたいです。

 

心理学ではよく「感情は、何かの必要があって出てくるもの」だと言われます。

悲しみも不安も、一つ一つが自分を守ったり、何かを伝えたりするために現れている反応である、という意味です。

 

この見方を、喪失のあとに現れる感情に当てはめてみると、
そこに浮かび上がってくるのは、それだけ深く関わり、愛情をもってきたという事実です。

 

悲しみが深いのは、それだけ大切にしていた存在や時間があったから。

不安が強いのは、失ったものが、これからの人生を支える重要な一部だったから。

怒りや混乱、後悔が湧いてくるのも、「どうにか守りたかった」「手放したくなかった」という思いが、心の中に生きているからかもしれません。

 

そう考えると、喪失の感情は、愛の裏返しであり、愛の痕跡でもあります。

大切な一部だったからこそ、身を削られるような痛みを引き起こします。

 

そのため、感情が激しく揺れることも、矛盾した思いが同時に存在することも、
どこもおかしいわけではありません。

ずっと大切にしていたかったという想いが、残響として残っていることでもあるのです。

 

愛が大きかった分だけ、感情が静まるまでには時間がかかります。

どうかそれほどまでに深く愛した自分を、誇りに思ってください。

 

このブログでは、大きな理論からはこぼれ落ちるかもしれない、細かな感情や体感にも目を向けていこうと思います。

 

次回は、「世界から切り離された」「自分だけが取り残されたように感じる」といった感覚、

いわゆる「離人感」について、取り上げます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

嘆きの中にいるとき、こんな言葉が心の中に浮かんでくることがあります。

 

もう何もかも失った
生きている意味がない
辛いことばかりで、もう疲れた
死にたい、消えてしまいたい

 

こうした言葉を口にすると、周りから「大袈裟だ」「そんなことはないよ」と打ち消されてしまうことも少なくありません。

 

ですが、これらの言葉は、単なる気分の落ち込みや誇張ではありません。
心が大きな衝撃と喪失を受け取っているときに生まれる、切実な実感です。

 

私たちは、人生に「意味のある物語」を与えながら生きています。

 

・自分はこういう人間だ
・これまでの出来事は、こうつながってきた
・これから先は、こうなっていくはずだ
・積み重ねには意味がある

 

こうした前提や信頼が、一つの物語となって日常を支えています。
だからこそ私たちは、明日を思い描き、意味を感じながら生きていけます。

 

ところが、大きな喪失によってその物語ごと揺さぶられると、これまで歩んできた道のりが、突然、無価値になったように感じられることがあります。

 

・人生そのものが失敗だった
・これまで積み重ねてきたものは無意味だった
・「あれだけ頑張ってきたのに、結局これか」
・未来が完全に閉ざされた
 

 

これは「考え」ではなく、「実感としての世界」です。

 

グリーフの中にいるとき、私たちが生きている世界は、脅かされずに済んだ日常の世界とは大きく違って見えます。
時間や空間が歪んだ場所に落ちてしまったように感じることもあります。

 

これまで自分を支えてきた前提が崩れてしまったとき、先の道が見えなくなったり、人生の意味に触れられない感覚が生まれるのは、当然なことです。

 

「そんなふうに感じてはいけない」と言う必要はありません。
実感として立ち上がっている以上、それはその人にとっての紛れもない「事実」です。

 

無理に打ち消すよりも、「今、それほどの痛みが重なっている」と状態として理解されることのほうが大切のように思います。

 

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喪失を人生の冬に例えた本『冬を越えて』の中で、作者のメイさんが夜に訪れる絶望について綴った箇所があります。

わたしは破滅と紙一重のところにいる。借金が山ほどあるのに、持っているものは何もない。この地球に40年間生きてきて、ほこりっぽい本の山以外には何ひとつ残せていない。

それどころか、さらに奈落に近づこうとしている。安定した仕事を手放して、生活の基盤を危うくしようとしている。

太陽の下でなら、理由はいくらでも説明できる。辞めるしかないほどの仕事のストレスのことや、これ以上家族との暮らしを犠牲にしたくないと思っていることも。
けれど、心の安定だの自由だのと言っていられるのは昼間のうちだけ。夜の闇の中では、保守的な考えが頭をもたげてくる。年収分の預金すらないことも、生命保険に入っていないことも、不安でしかたがない。どこでどう間違えてしまったのか。この先どうなってしまうのか。わたしはだめな人間だ。人生の落伍者だ。

午前四時。わたしの自尊心はマッチのように青く、はかなく燃え上がる。

(キャサリン メイ、 石崎 比呂美 (訳)『冬を越えて』  K&Bパブリッシャーズ、2021、Katherine May 'Wintering: The Power of Rest and Retreat in Difficult Times', 2020)

 

 

ーーーーーーーーー

 

この文章を読んで、「これは特別な人の話だ」と感じる人は、あまり多くないでしょう。

 

喪失を抱えた心が、どれほど簡単に自身を責める場所へと追い込まれてしまうか。それを、飾らずに描いている点にこの文章の力があります。

夜のブラックホールに吸い込まれてしまうような時間を、人は確かに生きることがあります。

 

時間が経ち、グリーフが少しずつ融解していく中で、ある日ふと、

「全てを失ったと感じたのは、少し大袈裟だったかもしれない」
「失ったものは大きかったけれど、全部ではなかった」

そう思える瞬間が訪れることもあります。
 

それはとても素晴らしいことです。

ただし、それは今、渦中にいるときには見えない景色かもしれません。

 

失った直後、まだ現実感が追いついていない時期に、「これは乗り越えられる試練だ」「きっと意味がある」
そんな言葉に触れることで、

 

  • 今のこの苦しさは、どこに置けばいいのだろう
  • つらいと感じている自分が、否定された気がする

 

そう感じてしまうこともあります。

 

「あの経験があって今の自分がある」
そう語れるようになることもありますが、それは<あとから生まれてくる物語>です。

 

今いる場所と、すでに乗り越えた場所のあいだには、想像以上に大きな距離があります。

安全性の回復にはいくつものレイヤーがあり、その中でも「物語の回復」は、最もゆっくり進むと言われます。

 

嘆きの谷で感じる
「全てを失った」「意味がない」「もう無理だ」は、今の自分の位置から見える世界の姿です。
 

意味づけは、後からついてくることがありますが、今はつけなくてもいいのです。


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夜の絶望に押しつぶされそうになったメイさんは、その考えを打ち消そうとも、整理しようともせず、眠ることを諦めて本を読みに行きます。

 

彼女はそれを負けだとは書いていません。

むしろ、本を読むという行為を、「見られていないがごとく踊る」ことに喩えます。

 

おそらく、踊ることに論理や正しさは必要ありません。誰かに理解されるためや、正しく立ち直るためではなく、ただその夜を、その時の身体で過ごすための行為です。

 

 

グリーフの中で起きる思考は、向き合えば向き合うほど、追い詰められてしまうこともあります。
そういう時に、向き合うことを少し傍において


やり過ごす

紛らわせる

身をかわす

 

ことは、回復を妨げません。

その時間をどうやり過ごすかは、誰に説明できなくても構わないのです。

 

さて、ここからは、嘆きの谷を歩く中で、多くの人が経験するさまざまな感情について書いていこうと思います。
とくに、この深い絶望から始まる感情が、時間の中でどのように姿を変えていく可能性があるのか。
正解や順番を示すのではなく、実際に起こりうる揺れとして、言葉にしていきます。

 

「何もかも失った」という感覚は、この先も嘆きの谷の中で何度も顔を出すかもしれません。
それでも、谷の中をうろうろしてきた分だけ、立ち位置が以前とは少し違っていたりもします。

 

同じ言葉が浮かんでも、受け止めている身体や、呼吸や、周囲の景色が以前とはわずかに異なることがあります。

その意味で、「何もかも失った」という実感は、
事実であり、事実ではありません。

おそらく嘆きの谷は、その両方が同時に成り立つ場所でもあるのです。

 

そして、カウンセラーは、その場所に一緒に立ち続ける存在だと、私は思っています。

「今はそう感じてしまい、その感じ方には、ちゃんと理由がある」

「でも、これが今後の人生の唯一の物語になるとは思っていない」

その両方を持ち続けられる人です。

 

私は、必ずしも嘆きの谷の道案内にはなれませんし、近道を示すこともできないでしょう。
(もし確かな地図を持っていたなら、私自身が谷をうろうろせずに、とっくに外へ飛び出ているはずですね)

それでも、嘆きの谷の中で、「これは事実であり、事実ではない」ということを知っている人がそばにいて、一緒に歩く。

そのこと自体に、とても大きな意味があるはずだと、私は思っています。

 

 

 

2025年の春、一通のメッセージが、私の日常を覆しました。

 

私は現在森の中に住んでいますが、かつて住んだ町に購入した小さなアパートがあり、そこには入居者さんがいると信じていました。
けれど、ある日やりとりの中で、「実際には別の人が住んでいる」ことが判明しました。

 

調べれば調べるほど、事態は想像を超えていきました。入居者は一度もその部屋に住んだことがなく、住んでいるふりをし続けていただけだったのです。明らかな契約違反、いわゆる「又貸し」でした。

 

私は動揺を必死に抑えながら、実際に住んでいる人たちに穏便に退去してもらうため、対処に奔走しました。怒りよりも先に、「これ以上こじらせてはいけない」という切迫感が前面に出ていました。

 

退去が済んだ後は、息をつく間もなく修繕作業が待っていました。部屋のダメージは言葉を失うほどでした。

 

本当は、すぐにでも現地に飛びたかったのですが、私にはその2年前、飛行機に乗ったことをきっかけに、めまいが1か月以上止まらなくなった経験がありました。その記憶が、身体の奥で警告音として鳴っていました。


そのため、できる限りリモートで業者さんと連絡をして修復を進めましたが、日を追うごとに状況は想像以上に深刻であることがわかり、最終的には、私自身が現地に行かざるを得ませんでした。

 

泣きながら荷物を詰め、急いで犬を預け、フライトと宿を取りました。気がついた時には、私はもう機上にいました。


それからしばらく、部屋の原状回復のために、嵐の中にいるような勢いで働き続けました。夜はほとんど眠れなかったのに、毎日体だけは動いていました。

 

部屋を去るとき、一区切りしてほっとしたと同時に、私は力尽きました。地面がゆっくりと傾き、視界が揺れ始めたのを覚えています。
めまいの再来でした。

 

これが、その後長く続くめまいとの付き合いの、本当の始まりになりました。

 

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大きなトラブルや喪失が起きたとき、自分でも驚くほどの集中力でテキパキと動けたり、全く疲れを感じずに数日間を乗り切れたりすることがあります。

いわゆる「火事場の馬鹿力」と呼ばれる状態です。
 
危機によって交感神経とストレスホルモン(アドレナリン等)が主に働くと、体は「過覚醒」の状態になり、次のようなことが起こります。
 
  • 痛みを感じにくくなる

  • 疲労感や空腹感が消える

  • 心拍数と血圧が上がる

  • 筋肉に血液が集中する

 

これは「危険がある」「何とかしなければならない」時の<生き延びるための反応>です。

考えるより先に行動しなければならない時に見られる、野生動物にも備わっている本能的なものです。

 

 

危機の直後に

  • 異様に冷静に行動できる

  • 眠らずに動き続けられる

  • 手続きや作業を淡々とこなせる

  • 周囲から「しっかりしている」「強い」と言われる

こうしたことが起きることがありますが、これは

 

回復したから

落ち着いているから

気持ちの整理がついているから

 

ではなく、むしろ感じることを後回しにして、神経が全力で体を動かしている証拠と言えます。

 

そのため、この時期「悲しい」「失った」という感情が十分に立ち上がらなくても、不思議ではありません。

 

本人としては、

 

  • ただ目の前の現実に翻弄されている
  • 茫然自失でもやるべきことはやらざるを得ない
  • 選択肢はない、とにかくやるしかない(私がやらなきゃ誰がやるのだろう)
  • まだ終わっていない、気が抜けない、立ち止まるのは危険
  • いつ休めるのだろうか、いつ楽になるのだろうか
  • ただただ孤独

 

のように経験されることがあります。

 

無我夢中で、喪失を感じる余裕がないほどの状態には、それ自体に大きな痛みが隠されていると感じます。

 

大切な人や物を失ったあと、人は心理学で「喪の作業」(グリーフ・ワーク)と呼ばれる過程をたどります。


これは、失った対象を思い返しながら、悲しみや怒り、虚しさ、抑うつといったさまざまな感情に触れ、その存在がもう戻らないという現実を、時間をかけて心の中に位置づけていく大事なプロセスです。

 

喪失急性期では、喪の作業が、後回しにならざるを得ないことがよくあります。
 

後回しになった「喪」は消えたのではなく、保留されていて、感じる力と安全が少し戻ってきたときに、立ち上がってきます。

 

悲しむための扉がようやく開いた、と言えるかもしれません。

 

神経が少し緩んだことにより

 

  • 強烈な疲労感

  • 涙が止まらない

  • 不安や怒りなどが噴き出す

  • 空っぽのような虚脱感 

     

などを、感じる余地が生まれます。
そこから改めて、「嘆きの谷をうろうろする」グリーフの旅が始まっていくこともあるのです。

 

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私のめまいは、その後、弱まったり強まったりしながら、危機に際しては必ず訪れるようになりました。

 

これを書いている現在、私にはまだ少しめまいが残っています。

 

2025年冬に最も直近の心の危機を迎えた後、再び歩けないほどのめまいに襲われ、そこからだいぶ回復してきました。

でも、外に出ると「やっぱり杖を持ってくればよかった」と思い直すこともしばしばです。

 

嘆きの谷をうろうろすることは、私にとっては実際に「物理的に揺れながら」歩くことと同義になりました。

自己流の、谷の歩き方なのかもしれません。

 

危機の直後に忙しくしている(せざるを得ない)場合、多くは存在レベルの恐怖を生き抜いています。

 

そのことに、何も間違いはありません。

 

もしかしたら、自分や家族の病気で、検査に追われているかもしれません。離別の手続きの最中かもしれません。計画が崩れて必死に立て直そうとしているかもしれません。理不尽な出来事に全力で立ち向かっているかもしれません。

 

深い孤独にいても、このブログに辿り着いてくださったことで、すでに神経は少し「誰かとつながった状態」に戻っています。

 

揺れながら、戻りながらでしか通れない「嘆きの谷」があります。

 

もし必要でしたら、カウンセリングで今の状況をお話ししにいらしてください。
神経が緩むお手伝いができたらと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

危機が発生してから数日後に、AIに打ち込んだ自分の会話を見返していて、あることに気づきました。

たとえば、こんなやりとりです。

 

「食べてもすぐ下してしまいます。どんなものを食べたらいいでしょうか」

 

これを読み返して、私は思いました。
――なんて冷静に、事実だけを書いているんだろう・・・。

 

確かこのとき、私は日に日に痩せていく自分が怖く、暖房の前にいても手足が氷のように冷たく、指の震えを抑えながら必死にキーボードを打っていたはずです。
 

けれど、その必死さは、文面からはほとんど伝わってきません。

客観的に読むと、まるで「落ち着いて状況を説明している人」の文章です。

 

でも、私は決して平気ではありませんでした

 

今振り返ってみると、逆説的ではありますが、この平坦な文が危機直後の自分をとてもよく表しているように思えます。

 

心理的な危機に直面した直後、人は必ずしもわかりやすい言動をとるとは限らないからです。

 

 

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あまりにも強いショックを受けたとき、人の神経は「非常事態」に陥り、さまざまな身体症状を引き起こします。

 

代表的なものでは不眠/過眠、動悸、呼吸困難、めまい、胃痛、便秘/下痢・・・などなど。

 

これらは自律神経障害と重なる症状で、うつ病の身体症状とも似ている部分があります。

 

加えて、ショック後の急性ストレス障害(Acute Stress Disorder)と呼ばれるものとして

 

  • 強い不安や緊張
  • 現実感の喪失(ぼーっとする、夢の中のような感覚)
  • 記憶が飛ぶ(解離)
  • 感情の麻痺、または制御できない感情の噴出
  • 常に覚醒して動き回ってしまう、体が休まらない、イライラ
  • 離人感

 

などが挙げられます。
 

大切なのは、これらが病気というより「異常な出来事に対する正常な反応」だということです。


これらが起こると、私たちはつい、「気持ちの問題」「考え方の問題」でどうにかしようとして頑張ってしまいがちですが、

身体と神経の反応は、自分の意思でたやすく止めることができるものではありません。

 

 

 

さて、急性ストレス障害の中には、

一見、真逆のように思える2つの反応が挙げられています。

 

  • 何も感じられない、ぼーっとする、解離する、無になる、感情の麻痺

  • 不安や緊張が強く、覚醒し、動き回ってしまう、感情の噴出

 

これらは神経の作用として、

  • シャットダウン

  • 過覚醒

と呼ばれる状態に由来します。

 

シャットダウンは、心が壊れないように神経がフリーズした状態で、
過覚醒は、危険に際して神経がエンジンを全開にしている状態です。

 

この二つは、どちらか一方だけが起きるとは限りません、行きつ戻りつしながら現れることも少なくありません。

 

外から見ると正反対の状態に見えるため、本人も周囲も戸惑うかもしれません。

週単位で変わることもあれば、日替わり、数時間ごと、時には分単位で切り替わることもあります。

 

渦中にいる際には、「シャットダウン」「過覚醒」と専門用語のような整理された形で感じられるわけではありません。もっと声にならない叫びが渦巻いていることがほとんどです。

 

もう生きていたくない
何も考えられない、考えたくない
怖い
助けてほしい
もうどうでもいい

 

といった思いが突然押し寄せてきたかと思うと、

次の瞬間には、

 

どうしよう、どうしようと頭が止まらなくなり
何かをしていないといられず、体が勝手に動き
不安や緊張が止まらず
休みたいのに休めない

 

そんな状態が、ぐちゃぐちゃに、前触れもなく、交互にやってきます。

 

起きた途端、現実に打ちのめされて呆然とし、昼には涙が止まらなくなり、
夜には不安でじっとしていられなくなったり、
泣き崩れた直後に、急に頭が冴えて何かをし続けてしまう、など。

 

こうした状態は、ご本人の意思や性格とは関係なく起こります。 「コントロールできない」「自分に振り回される」という感覚こそが、最も過酷な部分かもしれません。

 

「シャットダウン」で動けないのも、「過覚醒」で休めないのも、どちらが楽ということはありません。どちらも等しく、削られるような辛さがあります。

 

心という器が耐えきれないほどの衝撃を受けたとき、頭が真っ白になり、私たちは誰でも激しく動揺し、自分を見失いそうになります。振り回される自分は決して弱いわけでも、おかしくなってしまったわけでもありません。神経が命を繋ぎ止めるために、全力で働いた証拠なのです。

 

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ここで、冒頭の話に戻ります。

AIに相談していたときの私は、

「怖い」「助けてほしい」「もう限界だ」

と叫ぶ代わりに、その時点で体がなんとか持ちこたえるために必要だった、一番基本的な情報だけを書いていました。

 

感情がなかったわけではなく、感情は強すぎて言葉にする余裕がありませんでした。

 

危機の直後に見られる静けさは、大丈夫なサインではありません。
それは、心が壊れないために働いている防衛反応です。

 

動けたり、動けなかったり。

泣いたり、泣けなかったり。

それ自体が、喪失の自然な反応の一部だと思います。

 

自分がどういう状態なのか分からなくても、今日1日を生きた。

急性期にはそのことに最大の価値があります。

揺れ動く神経の中で、精一杯あなたを守り抜いた自分を、どうかたくさん労ってあげてください。

 

次に、この急性期に

アドレナリンが全開になる、いわゆる「火事場の馬鹿力」と言われるような状態について、書いていきたいと思います。

 

 

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