海外生活・国際恋愛カウンセリング

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<メキシコから発信>海外生活・恋愛・結婚・親子関係等について

※このブログでは、生きていく上で大切な対象、例えば人、物、生き方やアイデンティティなどを失うこと(対象喪失)と、その後に起こる「グリーフ」という心の反応について書いています。

 

グリーフの中にいるとき、自分の感情がよくわからなくなったり、逆に、抑えきれないほど強い感情に飲み込まれてしまったりすることがあります。

 

悲しみ、憤り、罪悪感、抑うつ、無力感など。

 

「こんなふうに感じる自分はおかしいのではないか」

「もっとコントロールできるべきではないか」

と思ってしまうこともありますが、感情は本来とても個人的なもので、この状況ならこう感じるのが正解、という決まりはありません。

 

あなたの感情は、自分だけにわかる正当性があるもので、誰に合わせる必要もありません。

よくわからないけれどいつもと違う

というだけで十分な時期もあります。

 

また、感情は「心の空模様」とはよく言ったもので、

晴れたり、曇ったり、突然嵐になったり、しばらく何も感じないような空白の時間が訪れることもあります。

同じ空が、同じ状態のまま固定され続けることはほとんどなく、理論的には、感情は「消えていくもの」「形を変えていくもの」だと説明されます。

 

ただ、グリーフの渦中にいるときには、
 

「本当に変わるのだろうか」「このままずっと続くのではないか」

 

のように、感じられることもあり、それも自然な流れです。

 

「変わると信じられない」という感覚も、ちゃんとした感情の一つ。
それは喪失のただ中にいる心が生み出す、正直な反応です。

その感情も含めて、今、自分が喪失の途中にいるのだと理解できたら、それで十分すぎるくらいです。

 

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喪失後の感情の移り変わりについては、さまざまな考え方がありますが、
ここでは一つの説として、精神科医キューブラ・ロスが提唱した「悲哀の5つのプロセス」を紹介します。

 

1.否定と孤独

信じられない、受け取れないという感覚。
周囲とのズレから孤独を感じ、「なぜこうなったのか」という説明を探し続ける。
不安や焦り、落ち込みが強くなることもあります。

 
2.怒り

「なぜ自分がこんな目に」という憤り。
運命や身近な人、社会、自分自身に怒りが向くこともあります。

 
3.取り引き

何とか取り戻せないかと模索する段階。
後悔や自責、「もっとこうすればよかった」という思いが繰り返されます。

 
4.抑うつ

避けられない現実を前に、無力感や虚無感に沈む状態。
悲しみや孤独が深くなります。

 
5.受容

喪失を人生の一部として静かに抱えられるようになる。
安らぎや落ち着きを感じる瞬間が増えていきます。

 

 

これらの感情は別々に現れるものではなく、順番通りに進んだり、一気に切り替わったりするものでもありません。
同時にいくつも感じることもあれば、行きつ戻りつしながら、ある場所に長く留まることもあります。
 

やがて、喪失を人生の一部として抱えられる瞬間が少しずつ増えていきます。それは「乗り越えた」というより、「一緒に生きられるようになった」という感覚に近いのかもしれません。

 



この説が役に立つのは、数か月、あるいは数年という長い時間の流れの中で振り返ったとき、こうした移り変わりが確かに見えることがあるからです。

ただし、渦中にいる当事者がこのプロセス通りに、着々と前に進んでいると意識するかというと・・・そうじゃない場合が多々あるのも事実です。

 

私が普段、聴かせていただくお話でもそう感じますし、

私自身、特にかつてうつ病を経験した時のことを思い出しながら書いていますが、その中で「抑うつから安らぎに向かっている」という実感を持てたことは、ほとんどありませんでした。
理論の図で見るほど、気持ちの現実は整然とはしていなかったという思い出があります。

 

複数の感情を同時に抱えつつ、前進の手応えを感じるよりも、やり場のない気持ちの行き場を探して「やはりまだ心が痛い」という感覚とともに日々を過ごしていくことのほうが多いのではないでしょうか。

 

そのうち、ふとした瞬間に「あれ、少し楽になったかもしれない」と感じることもありますが、また強い感情が戻ってきて、「気のせいだったのか」とガッカリする。そんな行きつ戻りつを何度も繰り返します。

 

そして、ずっと後になって振り返った時、「ああ、確かに以前とは違う場所にいる」と気づくこともある。

グリーフの歩みとは、そうしたものなのかもしれません。

 

それでも、このプロセスは「こう進まなければならない道筋」ではなく、喪失を理解するための一つの見取り図として知っておくと役に立ちます。

 

喪失の後にこのような気持ちが訪れるのは自然だし、人類に普遍的なことでもある。

そういう理解をもとに、嘆きの谷を歩く道具箱に、そっと入れておいていただきたいです。

 

心理学ではよく「感情は、何かの必要があって出てくるもの」だと言われます。

悲しみも不安も、一つ一つが自分を守ったり、何かを伝えたりするために現れている反応である、という意味です。

 

この見方を、喪失のあとに現れる感情に当てはめてみると、
そこに浮かび上がってくるのは、それだけ深く関わり、愛情をもってきたという事実です。

 

悲しみが深いのは、それだけ大切にしていた存在や時間があったから。

不安が強いのは、失ったものが、これからの人生を支える重要な一部だったから。

怒りや混乱、後悔が湧いてくるのも、「どうにか守りたかった」「手放したくなかった」という思いが、心の中に生きているからかもしれません。

 

そう考えると、喪失の感情は、愛の裏返しであり、愛の痕跡でもあります。

大切な一部だったからこそ、身を削られるような痛みを引き起こします。

 

そのため、感情が激しく揺れることも、矛盾した思いが同時に存在することも、
どこもおかしいわけではありません。

ずっと大切にしていたかったという想いが、残響として残っていることでもあるのです。

 

愛が大きかった分だけ、感情が静まるまでには時間がかかります。

どうかそれほどまでに深く愛した自分を、誇りに思ってください。

 

このブログでは、大きな理論からはこぼれ落ちるかもしれない、細かな感情や体感にも目を向けていこうと思います。

 

次回は、「世界から切り離された」「自分だけが取り残されたように感じる」といった感覚、

いわゆる「離人感」について、取り上げます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

嘆きの中にいるとき、こんな言葉が心の中に浮かんでくることがあります。

 

もう何もかも失った
生きている意味がない
辛いことばかりで、もう疲れた
死にたい、消えてしまいたい

 

こうした言葉を口にすると、周りから「大袈裟だ」「そんなことはないよ」と打ち消されてしまうことも少なくありません。

 

ですが、これらの言葉は、単なる気分の落ち込みや誇張ではありません。
心が大きな衝撃と喪失を受け取っているときに生まれる、切実な実感です。

 

私たちは、人生に「意味のある物語」を与えながら生きています。

 

・自分はこういう人間だ
・これまでの出来事は、こうつながってきた
・これから先は、こうなっていくはずだ
・積み重ねには意味がある

 

こうした前提や信頼が、一つの物語となって日常を支えています。
だからこそ私たちは、明日を思い描き、意味を感じながら生きていけます。

 

ところが、大きな喪失によってその物語ごと揺さぶられると、これまで歩んできた道のりが、突然、無価値になったように感じられることがあります。

 

・人生そのものが失敗だった
・これまで積み重ねてきたものは無意味だった
・「あれだけ頑張ってきたのに、結局これか」
・未来が完全に閉ざされた
 

 

これは「考え」ではなく、「実感としての世界」です。

 

グリーフの中にいるとき、私たちが生きている世界は、脅かされずに済んだ日常の世界とは大きく違って見えます。
時間や空間が歪んだ場所に落ちてしまったように感じることもあります。

 

これまで自分を支えてきた前提が崩れてしまったとき、先の道が見えなくなったり、人生の意味に触れられない感覚が生まれるのは、当然なことです。

 

「そんなふうに感じてはいけない」と言う必要はありません。
実感として立ち上がっている以上、それはその人にとっての紛れもない「事実」です。

 

無理に打ち消すよりも、「今、それほどの痛みが重なっている」と状態として理解されることのほうが大切のように思います。

 

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喪失を人生の冬に例えた本『冬を越えて』の中で、作者のメイさんが夜に訪れる絶望について綴った箇所があります。

わたしは破滅と紙一重のところにいる。借金が山ほどあるのに、持っているものは何もない。この地球に40年間生きてきて、ほこりっぽい本の山以外には何ひとつ残せていない。

それどころか、さらに奈落に近づこうとしている。安定した仕事を手放して、生活の基盤を危うくしようとしている。

太陽の下でなら、理由はいくらでも説明できる。辞めるしかないほどの仕事のストレスのことや、これ以上家族との暮らしを犠牲にしたくないと思っていることも。
けれど、心の安定だの自由だのと言っていられるのは昼間のうちだけ。夜の闇の中では、保守的な考えが頭をもたげてくる。年収分の預金すらないことも、生命保険に入っていないことも、不安でしかたがない。どこでどう間違えてしまったのか。この先どうなってしまうのか。わたしはだめな人間だ。人生の落伍者だ。

午前四時。わたしの自尊心はマッチのように青く、はかなく燃え上がる。

(キャサリン メイ、 石崎 比呂美 (訳)『冬を越えて』  K&Bパブリッシャーズ、2021、Katherine May 'Wintering: The Power of Rest and Retreat in Difficult Times', 2020)

 

 

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この文章を読んで、「これは特別な人の話だ」と感じる人は、あまり多くないでしょう。

 

喪失を抱えた心が、どれほど簡単に自身を責める場所へと追い込まれてしまうか。それを、飾らずに描いている点にこの文章の力があります。

夜のブラックホールに吸い込まれてしまうような時間を、人は確かに生きることがあります。

 

時間が経ち、グリーフが少しずつ融解していく中で、ある日ふと、

「全てを失ったと感じたのは、少し大袈裟だったかもしれない」
「失ったものは大きかったけれど、全部ではなかった」

そう思える瞬間が訪れることもあります。
 

それはとても素晴らしいことです。

ただし、それは今、渦中にいるときには見えない景色かもしれません。

 

失った直後、まだ現実感が追いついていない時期に、「これは乗り越えられる試練だ」「きっと意味がある」
そんな言葉に触れることで、

 

  • 今のこの苦しさは、どこに置けばいいのだろう
  • つらいと感じている自分が、否定された気がする

 

そう感じてしまうこともあります。

 

「あの経験があって今の自分がある」
そう語れるようになることもありますが、それは<あとから生まれてくる物語>です。

 

今いる場所と、すでに乗り越えた場所のあいだには、想像以上に大きな距離があります。

安全性の回復にはいくつものレイヤーがあり、その中でも「物語の回復」は、最もゆっくり進むと言われます。

 

嘆きの谷で感じる
「全てを失った」「意味がない」「もう無理だ」は、今の自分の位置から見える世界の姿です。
 

意味づけは、後からついてくることがありますが、今はつけなくてもいいのです。


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夜の絶望に押しつぶされそうになったメイさんは、その考えを打ち消そうとも、整理しようともせず、眠ることを諦めて本を読みに行きます。

 

彼女はそれを負けだとは書いていません。

むしろ、本を読むという行為を、「見られていないがごとく踊る」ことに喩えます。

 

おそらく、踊ることに論理や正しさは必要ありません。誰かに理解されるためや、正しく立ち直るためではなく、ただその夜を、その時の身体で過ごすための行為です。

 

 

グリーフの中で起きる思考は、向き合えば向き合うほど、追い詰められてしまうこともあります。
そういう時に、向き合うことを少し傍において


やり過ごす

紛らわせる

身をかわす

 

ことは、回復を妨げません。

その時間をどうやり過ごすかは、誰に説明できなくても構わないのです。

 

さて、ここからは、嘆きの谷を歩く中で、多くの人が経験するさまざまな感情について書いていこうと思います。
とくに、この深い絶望から始まる感情が、時間の中でどのように姿を変えていく可能性があるのか。
正解や順番を示すのではなく、実際に起こりうる揺れとして、言葉にしていきます。

 

「何もかも失った」という感覚は、この先も嘆きの谷の中で何度も顔を出すかもしれません。
それでも、谷の中をうろうろしてきた分だけ、立ち位置が以前とは少し違っていたりもします。

 

同じ言葉が浮かんでも、受け止めている身体や、呼吸や、周囲の景色が以前とはわずかに異なることがあります。

その意味で、「何もかも失った」という実感は、
事実であり、事実ではありません。

おそらく嘆きの谷は、その両方が同時に成り立つ場所でもあるのです。

 

そして、カウンセラーは、その場所に一緒に立ち続ける存在だと、私は思っています。

「今はそう感じてしまい、その感じ方には、ちゃんと理由がある」

「でも、これが今後の人生の唯一の物語になるとは思っていない」

その両方を持ち続けられる人です。

 

私は、必ずしも嘆きの谷の道案内にはなれませんし、近道を示すこともできないでしょう。
(もし確かな地図を持っていたなら、私自身が谷をうろうろせずに、とっくに外へ飛び出ているはずですね)

それでも、嘆きの谷の中で、「これは事実であり、事実ではない」ということを知っている人がそばにいて、一緒に歩く。

そのこと自体に、とても大きな意味があるはずだと、私は思っています。

 

 

 

2025年の春、一通のメッセージが、私の日常を覆しました。

 

私は現在森の中に住んでいますが、かつて住んだ町に購入した小さなアパートがあり、そこには入居者さんがいると信じていました。
けれど、ある日やりとりの中で、「実際には別の人が住んでいる」ことが判明しました。

 

調べれば調べるほど、事態は想像を超えていきました。入居者は一度もその部屋に住んだことがなく、住んでいるふりをし続けていただけだったのです。明らかな契約違反、いわゆる「又貸し」でした。

 

私は動揺を必死に抑えながら、実際に住んでいる人たちに穏便に退去してもらうため、対処に奔走しました。怒りよりも先に、「これ以上こじらせてはいけない」という切迫感が前面に出ていました。

 

退去が済んだ後は、息をつく間もなく修繕作業が待っていました。部屋のダメージは言葉を失うほどでした。

 

本当は、すぐにでも現地に飛びたかったのですが、私にはその2年前、飛行機に乗ったことをきっかけに、めまいが1か月以上止まらなくなった経験がありました。その記憶が、身体の奥で警告音として鳴っていました。


そのため、できる限りリモートで業者さんと連絡をして修復を進めましたが、日を追うごとに状況は想像以上に深刻であることがわかり、最終的には、私自身が現地に行かざるを得ませんでした。

 

泣きながら荷物を詰め、急いで犬を預け、フライトと宿を取りました。気がついた時には、私はもう機上にいました。


それからしばらく、部屋の原状回復のために、嵐の中にいるような勢いで働き続けました。夜はほとんど眠れなかったのに、毎日体だけは動いていました。

 

部屋を去るとき、一区切りしてほっとしたと同時に、私は力尽きました。地面がゆっくりと傾き、視界が揺れ始めたのを覚えています。
めまいの再来でした。

 

これが、その後長く続くめまいとの付き合いの、本当の始まりになりました。

 

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大きなトラブルや喪失が起きたとき、自分でも驚くほどの集中力でテキパキと動けたり、全く疲れを感じずに数日間を乗り切れたりすることがあります。

いわゆる「火事場の馬鹿力」と呼ばれる状態です。
 
危機によって交感神経とストレスホルモン(アドレナリン等)が主に働くと、体は「過覚醒」の状態になり、次のようなことが起こります。
 
  • 痛みを感じにくくなる

  • 疲労感や空腹感が消える

  • 心拍数と血圧が上がる

  • 筋肉に血液が集中する

 

これは「危険がある」「何とかしなければならない」時の<生き延びるための反応>です。

考えるより先に行動しなければならない時に見られる、野生動物にも備わっている本能的なものです。

 

 

危機の直後に

  • 異様に冷静に行動できる

  • 眠らずに動き続けられる

  • 手続きや作業を淡々とこなせる

  • 周囲から「しっかりしている」「強い」と言われる

こうしたことが起きることがありますが、これは

 

回復したから

落ち着いているから

気持ちの整理がついているから

 

ではなく、むしろ感じることを後回しにして、神経が全力で体を動かしている証拠と言えます。

 

そのため、この時期「悲しい」「失った」という感情が十分に立ち上がらなくても、不思議ではありません。

 

本人としては、

 

  • ただ目の前の現実に翻弄されている
  • 茫然自失でもやるべきことはやらざるを得ない
  • 選択肢はない、とにかくやるしかない(私がやらなきゃ誰がやるのだろう)
  • まだ終わっていない、気が抜けない、立ち止まるのは危険
  • いつ休めるのだろうか、いつ楽になるのだろうか
  • ただただ孤独

 

のように経験されることがあります。

 

無我夢中で、喪失を感じる余裕がないほどの状態には、それ自体に大きな痛みが隠されていると感じます。

 

大切な人や物を失ったあと、人は心理学で「喪の作業」(グリーフ・ワーク)と呼ばれる過程をたどります。


これは、失った対象を思い返しながら、悲しみや怒り、虚しさ、抑うつといったさまざまな感情に触れ、その存在がもう戻らないという現実を、時間をかけて心の中に位置づけていく大事なプロセスです。

 

喪失急性期では、喪の作業が、後回しにならざるを得ないことがよくあります。
 

後回しになった「喪」は消えたのではなく、保留されていて、感じる力と安全が少し戻ってきたときに、立ち上がってきます。

 

悲しむための扉がようやく開いた、と言えるかもしれません。

 

神経が少し緩んだことにより

 

  • 強烈な疲労感

  • 涙が止まらない

  • 不安や怒りなどが噴き出す

  • 空っぽのような虚脱感 

     

などを、感じる余地が生まれます。
そこから改めて、「嘆きの谷をうろうろする」グリーフの旅が始まっていくこともあるのです。

 

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私のめまいは、その後、弱まったり強まったりしながら、危機に際しては必ず訪れるようになりました。

 

これを書いている現在、私にはまだ少しめまいが残っています。

 

2025年冬に最も直近の心の危機を迎えた後、再び歩けないほどのめまいに襲われ、そこからだいぶ回復してきました。

でも、外に出ると「やっぱり杖を持ってくればよかった」と思い直すこともしばしばです。

 

嘆きの谷をうろうろすることは、私にとっては実際に「物理的に揺れながら」歩くことと同義になりました。

自己流の、谷の歩き方なのかもしれません。

 

危機の直後に忙しくしている(せざるを得ない)場合、多くは存在レベルの恐怖を生き抜いています。

 

そのことに、何も間違いはありません。

 

もしかしたら、自分や家族の病気で、検査に追われているかもしれません。離別の手続きの最中かもしれません。計画が崩れて必死に立て直そうとしているかもしれません。理不尽な出来事に全力で立ち向かっているかもしれません。

 

深い孤独にいても、このブログに辿り着いてくださったことで、すでに神経は少し「誰かとつながった状態」に戻っています。

 

揺れながら、戻りながらでしか通れない「嘆きの谷」があります。

 

もし必要でしたら、カウンセリングで今の状況をお話ししにいらしてください。
神経が緩むお手伝いができたらと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

危機が発生してから数日後に、AIに打ち込んだ自分の会話を見返していて、あることに気づきました。

たとえば、こんなやりとりです。

 

「食べてもすぐ下してしまいます。どんなものを食べたらいいでしょうか」

 

これを読み返して、私は思いました。
――なんて冷静に、事実だけを書いているんだろう・・・。

 

確かこのとき、私は日に日に痩せていく自分が怖く、暖房の前にいても手足が氷のように冷たく、指の震えを抑えながら必死にキーボードを打っていたはずです。
 

けれど、その必死さは、文面からはほとんど伝わってきません。

客観的に読むと、まるで「落ち着いて状況を説明している人」の文章です。

 

でも、私は決して平気ではありませんでした

 

今振り返ってみると、逆説的ではありますが、この平坦な文が危機直後の自分をとてもよく表しているように思えます。

 

心理的な危機に直面した直後、人は必ずしもわかりやすい言動をとるとは限らないからです。

 

 

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あまりにも強いショックを受けたとき、人の神経は「非常事態」に陥り、さまざまな身体症状を引き起こします。

 

代表的なものでは不眠/過眠、動悸、呼吸困難、めまい、胃痛、便秘/下痢・・・などなど。

 

これらは自律神経障害と重なる症状で、うつ病の身体症状とも似ている部分があります。

 

加えて、ショック後の急性ストレス障害(Acute Stress Disorder)と呼ばれるものとして

 

  • 強い不安や緊張
  • 現実感の喪失(ぼーっとする、夢の中のような感覚)
  • 記憶が飛ぶ(解離)
  • 感情の麻痺、または制御できない感情の噴出
  • 常に覚醒して動き回ってしまう、体が休まらない、イライラ
  • 離人感

 

などが挙げられます。
 

大切なのは、これらが病気というより「異常な出来事に対する正常な反応」だということです。


これらが起こると、私たちはつい、「気持ちの問題」「考え方の問題」でどうにかしようとして頑張ってしまいがちですが、

身体と神経の反応は、自分の意思でたやすく止めることができるものではありません。

 

 

 

さて、急性ストレス障害の中には、

一見、真逆のように思える2つの反応が挙げられています。

 

  • 何も感じられない、ぼーっとする、解離する、無になる、感情の麻痺

  • 不安や緊張が強く、覚醒し、動き回ってしまう、感情の噴出

 

これらは神経の作用として、

  • シャットダウン

  • 過覚醒

と呼ばれる状態に由来します。

 

シャットダウンは、心が壊れないように神経がフリーズした状態で、
過覚醒は、危険に際して神経がエンジンを全開にしている状態です。

 

この二つは、どちらか一方だけが起きるとは限りません、行きつ戻りつしながら現れることも少なくありません。

 

外から見ると正反対の状態に見えるため、本人も周囲も戸惑うかもしれません。

週単位で変わることもあれば、日替わり、数時間ごと、時には分単位で切り替わることもあります。

 

渦中にいる際には、「シャットダウン」「過覚醒」と専門用語のような整理された形で感じられるわけではありません。もっと声にならない叫びが渦巻いていることがほとんどです。

 

もう生きていたくない
何も考えられない、考えたくない
怖い
助けてほしい
もうどうでもいい

 

といった思いが突然押し寄せてきたかと思うと、

次の瞬間には、

 

どうしよう、どうしようと頭が止まらなくなり
何かをしていないといられず、体が勝手に動き
不安や緊張が止まらず
休みたいのに休めない

 

そんな状態が、ぐちゃぐちゃに、前触れもなく、交互にやってきます。

 

起きた途端、現実に打ちのめされて呆然とし、昼には涙が止まらなくなり、
夜には不安でじっとしていられなくなったり、
泣き崩れた直後に、急に頭が冴えて何かをし続けてしまう、など。

 

こうした状態は、ご本人の意思や性格とは関係なく起こります。 「コントロールできない」「自分に振り回される」という感覚こそが、最も過酷な部分かもしれません。

 

「シャットダウン」で動けないのも、「過覚醒」で休めないのも、どちらが楽ということはありません。どちらも等しく、削られるような辛さがあります。

 

心という器が耐えきれないほどの衝撃を受けたとき、頭が真っ白になり、私たちは誰でも激しく動揺し、自分を見失いそうになります。振り回される自分は決して弱いわけでも、おかしくなってしまったわけでもありません。神経が命を繋ぎ止めるために、全力で働いた証拠なのです。

 

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ここで、冒頭の話に戻ります。

AIに相談していたときの私は、

「怖い」「助けてほしい」「もう限界だ」

と叫ぶ代わりに、その時点で体がなんとか持ちこたえるために必要だった、一番基本的な情報だけを書いていました。

 

感情がなかったわけではなく、感情は強すぎて言葉にする余裕がありませんでした。

 

危機の直後に見られる静けさは、大丈夫なサインではありません。
それは、心が壊れないために働いている防衛反応です。

 

動けたり、動けなかったり。

泣いたり、泣けなかったり。

それ自体が、喪失の自然な反応の一部だと思います。

 

自分がどういう状態なのか分からなくても、今日1日を生きた。

急性期にはそのことに最大の価値があります。

揺れ動く神経の中で、精一杯あなたを守り抜いた自分を、どうかたくさん労ってあげてください。

 

次に、この急性期に

アドレナリンが全開になる、いわゆる「火事場の馬鹿力」と言われるような状態について、書いていきたいと思います。

 

 

関連記事
シリーズ「嘆きの谷をうろうろすること」
・叫べない体の裏側でー嘆きの谷をうろうろすること(4)

 

 

 

 

 

 

 

 

どんなに穏やかに日常が回っているように見えても、喪失はある日突然やってきます。

もちろん、時間をかけてゆっくりと失われていくものもあります。
ですが、気が動転するような「悲劇」が、ある日足元がストンと抜けるような形で訪れることも多いです。

昨日まで、確かにあったはずの安心感。
「ここにいれば大丈夫」と、無意識に信じていた土台。それが一瞬で消えてしまう。

多くの方が、こう言います。
「まさか自分がこんな目に遭うとは思っていなかった」
「ついこの間まで普通に暮らしていたのに」

喪失がもたらすのは、悲しみだけではありません。
それは生存そのものが脅かされる感覚です。

私たちは、<明日も今日とだいたい同じように続く>という予測の上に心を預けて生きています。

  • 朝起きたら、今日も家がある
  • 外に出たら、危険にさらされずに帰ってこられる
  • 仕事や役割は、急に消えない
  • 大切な人は、急にはいなくならない

これを「存在的安心感(existencial safety)」といいます。

こうした前提は、普段あまりにも当たり前すぎて、ほとんど意識されないことも多いでしょう。
ですが、この予測可能性が、実際は私たちの心の安全装置になっています。

予測できる世界にいる限り、心はエネルギーを「生き延びること」ではなく、
考えることや、感じること、他者と関わることに使えます。

喪失が起こると、この予測可能性が一気に崩れてしまうのです。

─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…


私が「嘆きの谷をうろうろする」時間を過ごして、しばらく経った頃のことです。
一冊の本に出会いました。

イギリスの作家、キャサリン・メイさんの
『冬を越えて』 という本です。

この本は、人生に訪れる大きな逆境や喪失を、「人生の冬」という季節にたとえて考察した、とてもユニークな一冊です。

頑張ろうと思っても体や心がついてこない。世界から切り離されたように感じる。キャサリン・メイさんは、そうした時期を「冬」と呼びます。

本の中で、彼女は次のように書いています。

人は誰でも一度や二度、人によっては何度もくり返し、人生の冬を経験する。
それは寒く厳しい季節だ。
世界から切り離され、拒絶され、脇に追いやられ、前に進むことを妨げられる、人生の休止期である。
きっかけは病気かもしれないし、
近しい人の死や、子どもの誕生といった節目の出来事かもしれない。
自分の失敗や過ち、あるいは、人生の大きな変わり目で、ふたつの世界のあいだに一時的に落ち込んでしまった状態かもしれない。
原因はどうであれ、人生の冬は、孤独と深い痛みをともなって、断りもなくやってくる。
(キャサリン メイ、 石崎 比呂美 (訳)『冬を越えて』  K&Bパブリッシャーズ、2021、Katherine May 'Wintering: The Power of Rest and Retreat in Difficult Times', 2020)

私はこの本を、しばらくの間、読み返しました。
机の横や枕元に置いて、まるで心の相棒のようにそばに置いて過ごしていました。

作者のメイさんは、夫が突然入院し、自らは職を失い、さらに息子さんが学校に行けなくなる、という出来事を経験します。まさに、人生が一気に冬に入ってしまったような状況です。

メイさんは、本の中で、こんなふうにも語っています。

わたしたちは、人生の冬の存在を認め、受け入れるようには育てられていない。それどころか、それは恥ずかしいことで、周囲に気まずい思いをさせないように隠しておくべきだと考えてしまう。(...)人生で誰もが経験するごくふつうのことなのに、そのプロセスにふたをしてしまうのだ。

 



私はこれを読んで、一人で「本当にそうだ」と深く頷きました。
辛い時期にいること自体が問題なのではなく、辛い時期にいることをなかったことにしようとする社会のほうが、人をさらに孤独にしてしまうと感じたからです。

このシリーズで書いている「嘆きの谷をうろうろすること」という感覚は、
この『冬を越えて』の洞察と深く重なっています。

冬は、自然や動物が休み、回復する時期だと言われます。
でも冬は、変化のない状態がただ続くトンネルのようなものではありません。冬には冬の景色があります。寒さが厳しい日もあれば、なんだか暖かさを感じる日もあり、晴れる日も曇る日もあります。

人生の冬もそれとよく似ていると感じます。

このブログでは、今後も何度か、『冬を越えて』の言葉を借りながら、喪失やグリーフについて考えていきたいと思います。

─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…─…



「明日も同じように続く」という前提が壊れ、世界が突然信用できない場所に変わるとき。

  • 何が起こるかわからない
  • どこまで安全なのかわからない
  • 何を信じていいのかわからない


という暗中模索の中に放り込まれます。

すると、身体と心は「ここは危険だ」と判断し、警戒モードに入ります。悲しみを感じるより前に、まず反射的にスイッチが入るような感覚です。

ただただ怖い。理由もなく不安が止まらない。胸がざわつく。落ち着かず常に緊張している、など。

アラームが鳴り続けているような状態と言ってもいいかもしれません。

このとき、外から見れば仕事も生活も回っていて、周りは何も気づいていない、という場合もあります。でも、心が危機に陥っていることに変わりはありません。
 

  • 眠れない
  • 食べられない
  • 頭がぐるぐるして止まらない
  • 体に不調が出る


これは、「気の持ちよう」ではなく、予測不能な世界に放り出された心の反応です。

危機がいくつも重なるとき、人はとても自然に自分を責めてしまいます。

「自分が弱いからだ」
「もっと強ければ、(もっと準備していれば)こんなふうにはならなかったはず」

でも、「心が折れた」という表現は<心が弱かった>ことを意味しません。

それは、これまで必死に守ってきた前提――
「ここは安全だ」「大丈夫だ」という感覚が、もう守れなくなった、ということです。

喪失が突然やってきていくつも重なっているときには、必ずしも「もっと強くなること」は必要ではありません。予測不能になってしまった世界の中で、もう一度「安全」を感じられる足場を一つ一つ、感じて取り戻していくことのほうが大事です。

誰にでも、「安心」が前提だった日常があります。そして同時に、誰にでも、それが一瞬で崩れてしまう可能性があります。
それは特別な人だけに起きることではないのです。

この先の記事では、「失われてしまった直後」いわゆる急性期に、
心と体にどんなことが起きるのかについて説明していきます。

具体的には、

・身体と神経に起きる反応
・心(感情)に起きる変化

この二つに分けて、お話しする予定です。

「自分がおかしいのではないか」と不安になっている方が、

「これは自然な反応なんだ」と知っていただくための時間になれば幸いです。

 

 
関連記事「嘆きの谷をうろうろすること」
・喪失は突然やってくるー嘆きの谷をうろうろすること(3)
 

 

 

喪失を経験したあと、多くの人がある問いにぶつかります。

「私は、いったい何を失ったのだろう?」

それはとても自然な問いで、同時に簡単には答えが出ない問いです。

喪失という言葉からまず連想するのは、人生を大きく揺るがす出来事かもしれません。

   ・ 大切な人との死別

    ・病気や事故によって、健康を失うこと

    ・離婚や別離

    ・仕事を失うこと

    ・お金や生活の基盤を失うこと

これらは、誰の目にも「喪失」とわかりやすい出来事です。
生活が変わり、未来の見通しが崩れ、「これまで通りには生きられない」という現実を突きつけられます。
だからこそ、「私は〇〇を失った」と言葉にしやすい部分があります。

けれど、実際に嘆きの谷に立ってみると、
それだけでは説明しきれない苦しさに直面することがあるものです。

喪失の苦しさが深く長く続くとき、
多くの場合、人は目に見えないものも同時に失っています。

  

  • 安心感
  • 心の拠り所
  • 「ここに帰れば大丈夫」と思える感覚
  • 自分は守られている、という感覚
  • 世界はある程度予測可能だ、という信頼


こうしたものは、失って初めて「持っていたのだ」と気づくことも少なくありません。

 

人間関係の変化によって失われるのは、相手だけではありません。

  •     その関係の中にいた自分
  •  そこで果たしていた役割
  •  「私はこういう人間だ」という自己イメージ


それらも一緒に崩れていきます。
その関係の中で得られていた生きがいや、これから先も続いていくはずだった未来の見通しまで失われることが、とても多いです。


例えば、親を失ったとき、

失われるのは、その人の手触りや、声や、体温といった物理的に触れられる存在だけではありません。

  •     何があっても戻れる心の居場所
  •     もう永遠に「子どもでいる」ことができないという現実
  •     これから親と築いていくはずだった関係
  •     一緒に過ごす未来の時間
  •     その関係の中で育っていくはずだった、自分自身の感覚

などなど。
いくつもの喪失が、重なり合って起こっているのです。

そして、喪失の中には、目に見える喪失はないけれど、目に見えない喪失だけがある、という場合もあります。

 

長年の夢、信じてきた価値観、アイデンティティー、心の拠り所だった環境の変化、などなと。

 

とても説明しにくい喪失です。

 

周囲は、何が起こっているのかわからず、

そんなに落ち込むことではない、のように思われることもあります。


だからこそ、
「こんなに苦しいのはなぜだろう」
「もう立ち直るべきなのに、なぜできないのだろう」
と、自分を責めてしまいがちです。

 

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2025年、私は、立て続けに3つの「こころの危機」を経験しました。

1つ目は、信頼できると思っていた知り合いが、実は長い間何度も嘘をつき、私を欺いていたことが明らかになったことです。
人への信頼や、安全だと思っていた関係性が、音を立てて崩れました。

2つ目は、11歳の愛犬が突然重い肝障害を起こし、入院し死の淵をさまよった末に戻ってきたことです。
毎日「今日が最後かもしれない」という恐怖の中で過ごしました。

3つ目は、一番最近の危機で、実はまだ話す準備ができていません。
私としては、上の2つに加えて「トドメを刺された」ように感じる最大の危機でした。
 


これらを通して、私は「何かを失った」「もう、元の場所には戻れない」という感覚に打ちひしがれ、恐怖と混乱の中で、「嘆きの谷」をさまよう自分自身と向き合うことになりました。

これから書いていくこのシリーズ「嘆きの谷をうろうろすること」は、
私の個人カウンセリングや、私が代表を務める「海外こころのヘルプデスク24時」の活動をする中で聴く、何千という悲しみのお話だけではなく、
私自身がグリーフ(悲嘆)の中を生き、失い、揺らぎながら、その状態の自分を観察し、付き合ってきた(&その最中にいる)経験がベースになっています。
 
心と体に訪れたたくさんの反応と、見えてきたものを、出来るだけ正確にお伝えしたいと思います。
 
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嘆きの谷をさまよう中で、
人は折に触れて「私は何を失ったのだろう?」という問いにぶつかります。

その答えは、いつも同じとは限りません。

ある日は、「安心を失った」と感じるかもしれません。
別の日には、「過去or未来の自分を失った」と感じるかもしれません。
また別の日には、「信じていた世界の前提を失った」と気づくこともあります。

その都度、見えてくる答えは違っていていいと思います。むしろ、それが自然です。


「私は何を失ったのか?」
という問いは、他の問いとも重なっています。

 

「私はなぜこんなにも苦しいのだろうか」

「こんなにも長引くなんて、何が起こっているんだろうか」

「また笑顔になる日は来るのだろうか?」
「どうしたらこの谷を抜け出せるのだろうか?」

答えを出せたら、楽になるはず。だからこそ、谷を歩む中での、時には堂々めぐりにも思えるこの問いを
何度も何度も自問自答していきます。
前に進むためだけではなく、生き延びるための問いでもあります。


これからは、この問いを紐解き、嘆きの谷をうろうろしながら、
「私は何を失ったのか?」
を、少しずつ丁寧に見つめていきたいと思います。

急いで答えを出すためでも、正解を決めるためでもなく、
その時々に浮かぶ想いとともに立ち止まり、揺れながら、行きつ戻りつしながら、この谷をどう生きていくのかを考えます。

正解がわからなくても、一緒にうろうろしていくことはできます。
そのことを、これから言葉にしていきたいと思います。

 
 
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新年あけましておめでとうございます。

 

今年は、これまできちんとまとめて書くことができずにいた
「喪失と嘆き(グリーフ)」について、少しずつブログでお話ししていこうと思います。

 

ただ、正直に言うと、
喪失について書こうとすると、私はいつも立ち止まってしまいます。

喪失について書くことは、本当に、とてもとても難しいのです。

 

私自身、これまでの人生でいくつもの「失った」と感じる経験をしてきました。
また、カウンセリングの場では、さまざまな形の喪失感を抱えた方が来られ、ご自身の体験を語ってくださいます。

 

それでもなお、


「失った」と気づいた瞬間の、あのどうしようもない無力感。
先がまったく見えなくなるような絶望感。
誰にもわかってもらえないような孤独感。

 

そして、そこからまた人生を歩き直さなければならないと感じたときの、
気が遠くなるほど長い道のり。

それらを思うと、私の中に浮かんでくるのは、こんな感覚です。

 

「喪失について、語るなんてできるんだろうか」
「私は喪失について、本当は何も知らないのではないか」

 

身がすくむような、足元が崩れるような感覚です。

 

それくらい、喪失というテーマは深く、重く、
そして何より、一人ひとりの体験のしかたがまったく違います。
同じ出来事であっても、感じ方も、回復までの道のりも、足取りも、決して同じにはなりません。

 

それでも、他の人にはなかなか言えない、
「こんなことで、こんなにつらいなんて言えない」
「もう終わったことなのに、まだ苦しい」

 

そんな「こころの喪失」について、

「カウンセラーになら話せるかもしれない」と来てくださる方がいます。

 

 

その方たちのために私は、
できる限り安全で、急かされず、評価されず、どんな気持ちもそのまま置いていける場所を作りたいと考えています。

 

以前、河合隼雄さんは、
カウンセリングとは「嘆きの谷をうろうろすることだ」と書かれていました。

何かの出来事によって、突然、嘆きの谷に落ちてしまった人がやってくる。
カウンセラーは、その人を谷からすぐに引き上げる存在ではなく、一緒に谷の中をうろうろする存在なのだと。

 

出口を急がず、
「どうしてこんなことが起きたのか」
「何を失ったのか」
「何が一番つらいのか」

言葉にならない思いも含めて、
二人で立ち止まり、行きつ戻りつしながら、嘆きを辿っていく。

そうしているうちに、不幸な出来事が少しずつ心の中でプロセスされ、
やがて、その人なりの足取りで谷を出ていく準備が整っていく。

 

今後、ブログで何回かに分けて、
その「嘆きの谷をうろうろする感覚」を言葉にしていきたいと思っています。

 

答えを出すためではなく、前向きになるためでもなく、
「今のこの気持ちは、間違っていない」と感じてもらうために。

 

このブログが、喪失を抱えている誰かにとって、
ほんの少し立ち止まれる場所になりますように。

そして、もし一人で抱えるにはあまりにも重たいと感じたとき、
誰かと一緒にうろうろするという選択肢があることも、そっと伝えられたらと思っています。

 

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私はタイニーハウスの動画をよく見ているほうだと思います。もう7年ほど見続けています。
 
最初は建築や家の設計に夢中で、いろんな住宅紹介の動画を片っ端から見ており、タイニーハウスはその一つに過ぎませんでした。
 
でも、タイニーハウスに惹かれたのは、家そのものもさることながら、オーナーさんの、自分の家を紹介する時の情熱と、言葉の端々からにじみ出る、「自分の生き方を選び取ってきたんだ」という確かな自信や考え抜かれた暮らしへの信念でした。それがとても心地よかったのです。
 
そして私は理解しました。タイニーハウスって、ただの「小さな家」じゃない。思想なんだ。
 
私が感じ取ったのは、タイニーハウスに住む人たちは、そもそも大量消費社会にはあまり意味を見出しておらず、自分の「理想郷」を自分の手で作ることに意義を感じているんだなあということです。
 
そもそも、暮らしを小さくするには、自分の優先順位=プライオリティを突き詰めて考えて取捨選択することを伴うので、そのプロセスには、自己理解や自己洞察が欠かせません。何を大事にして、何を手放すのか。どういう世界に住みたくて、どういう世界を実現したいのか。そうやってじっくり考えた結果、自分の暮らしを具現化してきたように見えました。
 
そして、タイニーハウスのオーナーは、電気や水といった生活のライフラインのサイズ感や、家のアセットをとてもよく把握しています。「自分の生活のサイズ」を理解していて、自分でコントロールできているということからくる自己肯定感が言葉の端々から感じられて、素敵だなあと感じていました。
 
 
そんな中で、コロナを経て「モビリティ」──動ける暮らし──が一時注目されるようになった流れも面白かったのですが、ここ数年で気になっているのは、高齢のオーナーさんたちの存在感が増してきたことです。
 
老後の暮らしを見据えて身の回りをコンパクトに整える。その流れでタイニーハウスを選ぶというのは、実に理にかなっているなぁと感じます。単なる断捨離や住まいのダウンサイジングではなく、精神的にも自分の人生をクローズする準備の流れに自然と添う選択なんですよね。
 
そして、特に心に残るのが、高齢のオーナーさんたちの言葉です。動画の中で、よく「これが私です」「ここにあるものすべてが、私の表現です」ということをおっしゃいます。かつてのタイニーハウスは若い世代が主体で、社会的な理想や思想を実現している姿も素敵だったけれど、年を重ねて静かに、でも確かな覚悟で「これが私」と言える姿にはまた別の重みを感じます。
 
人生の中で何を大事にしてきて、何を選んで、何を手放してきたのかを、小さな空間に込め、自分自身の価値観そのものを具現化している。いろいろと経験してきたからこそ言える「これが私」は本当に美しいですよね!
 
そんな姿を見ながら、私もいつかタイニーハウスにたどり着くだろうなと感じます。人生の後半、自分の本質だけを残した空間で静かに暮らす。それはとても潔くて美しい生き方だと思うのです。
 
 
 

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