僕に書ける文章を…。

僕に書ける文章を…。

思い出に変えないように、
僕にとっての光を求めて、
書いて行きます。

Amebaでブログを始めよう!
一生懸命努力しても上手に出来ないことや、誰にも認められないことがある。努力することは大切だといっても、それに結果が伴わなければ他人からは「無駄な努力だ」と思われる。年をとればとるほど、「いかに努力したか」よりも「どれだけの成果を上げたか」の方が重要に思えてくる。それは恐らく社会に対する適応なのだと思うけど、結果ばかり追い求めるならば、人間の「心」なんてものは要らないんだ。

どうして社会は、人が考えたり人が人と関わるために必要な心を削ぎ落として大人に仕上げるんだろう。日本では、自由に考えられるけど、自由に考えるほど社会に不適な人格として見られる。人と関わる自由もあるけど、大人になればどうしても親密になりにくい。

日本では法の下に平等なのに、社会の下では不平等なんだ。人の心にあわせて社会を創っても、人の心は社会の影響で変わる。それでも社会は、心にあわせて変化しにくい。つまり、社会に合うように心が削ぎ落とされる。その社会は社会を持続させるため、結果を要求する。社会にとっては、法律に抵触しない限りプロセスは考慮しない。法の下に平等とは、多分そんなモノなんだ。

もしも社会の中に純粋な心があれば、努力する人は増えるんじゃないかなって思う。純粋な心はきっと赤ちゃんのように、全てが新しくて、全てを受け止めてくれるから。プロセスだって、赤ちゃんは興味津々だろうし。
「辛い」って言ったら、「そんな事言うな」って怒られた。
相手が今の気持ちを言うように指示したのに、怒られた。

何年たっても、いじめっ子はガキのままだし、いじめられっ子は死にたくなるだけだし。
何年たっても、何も変わらない。変える意味を考えない人や、変える勇気も押し潰されて変えられない人ばかり増える。

そんな世界で生きるんだ。人間が創った「社会」の中で、みんなと同じが良いこと、っていうルールの中で、自分は悪くない、っていう自己催眠の中で生きるんだ。

醜いものに蓋をして、なのに「これはいけない事だ」って、社会的地位の高い人が言う。
本当に見てない、情報しか知らない人がいうんだ。それなら、社会や世界を変えられるわけがない。
聴く人も、情報しか聞かない。授業中に居眠りしてるのと同じなんだ。

結局みんな子供のままだ。僕も含めて。