多くの子どもたちと接していると、あらためて感じることがある。
血のつながりというのは、最初から“切れないもの”として前提になっている。
誰もがそう思っているし、たぶん多くの人が、無意識のうちにその前提に従っている。
それが正しいかどうかはともかくとして、「そういうものだ」として生きている人が大半だろう。
血のつながりは、だからこそ強く意識され、そしてまた、ときに扱いづらいものにもなる。
とはいえ、「家族だから大事」「親だから特別」とは、そう簡単には言い切れない。
100人いれば100通りの家族があって、血のつながりにもそれぞれのかたちがある。
生きていく中で出会うつながりの多くは、必ずしも血縁ではない。
むしろ、血のつながりを越えた関係にこそ、深さや重さを感じることもある。
一方で、子どもにとって「家族」というのは、世界そのものだ。
とりわけ両親の存在は、世界の中心どころか、境界そのものでもある。
だから、両親と離れるというのは、世界から引き離されるような体験になる。
理屈は通じない。ただ、そこに痛みがある。
私は、人と人とのつながりは、本質的には「距離の問題」だと思っている。
どんなに嫌いな相手でも、まったく知らない誰かでも、実はどこかでつながっている。
それは「近い」か「遠い」かの違いでしかない。
そして、距離感が変われば、家族の定義も変わって見える。
人間が今よりずっと少なかった頃、私たち全員の祖先にあたる誰かがいた。
一組の両親、さらにその前の祖先たち。
私たちはその延長線上にいて、何かしらを確実に受け継いでいる。
そう考えれば、広い意味で私たちは“家族”だと言っていい。
ただ、現実の中でその感覚を持ち続けるのは簡単ではない。
文化も言葉も立場も違えば、共通点を見失う。
だから人は無意識のうちに「ここまでが家族」「ここからは他人」と線を引く。
でも、せめてその線を自分がどこに引いているのかだけは、意識していたい。
血がつながっているかどうかではなく、どう関わるか、どう受け入れるか。
私が家族だと思うかどうかは、私自身の態度によって決まるのだと思う。