結婚や育児は罰ゲームなのか
結婚や育児は罰ゲームなのか妻の友人(28歳)が結婚や恋愛に積極的になれないそうです。なんでも、今のままでも十分幸せだし、結婚や子育てはリスクでしかないと仰るそう。まあ彼女に限らず、そして女性に限らず割とよく聞く話なんですが。彼女の人生なので私が反論する立場にないことは承知していますし、自分が今のままで十分楽しめていると思っているので否定もしません。ただ、私は結婚や子育てには肯定的ですし積極的です。妻は妻で将来に対する不安も、現在の不満もあると思いますが、その友人の行く末を案じてもいて、彼女に何を言ってやれるものかと相談を持ち掛けられたのがきっかけで、自分の考えを伝えるためにここでまとめようかと思いまして。彼女に既婚の立場からその良さを諭すとするなら、どんなことが言えるでしょうか?結婚するということ生涯をパートナーに捧ぐことだと思います。それは犠牲ではなく奉仕です。私の場合ホレた側ですし、仮に搾取されてようと構いませんのレベルです。普通はお互いに奉仕し合うことみたいなものでしょうか。もっと並べると許しあうとか認め合うとかでしょうか。とにかく人生の主役は「私」でいいんですが、同列にもうひとりできる感じです。このスポットライトが他者に、それも無条件に向くことでしか愛情なんて知り得ないと思うんです。特に母親なら大体わかると思いますが、母親の我が子への情がそれです。全員親ばか。子どもが何したって許しますよね。子どもに何言われても許しますよね。例えが適切かわかりませんが、そういう気持ちを持てる方が知らずにいるより幸せと思うんです。もちろん結婚しなくてもアイシテルって言える相手がいる場合もあると思います。でも、それって本当に無条件ですかね?少なくとも私には無理です。紙切れ一枚と言えばそうですが、結婚するって覚悟の要ることです。神父さんの言う「健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くす ことを誓いますか?」は相手への誓いでもありますが、自分への誓いですもんね。私にとっては決定的に重みが違う。大人が成長する私は私のために100%のパフォーマンスができた試しがありません。どこかで手を抜く、さぼる、諦める、天井を決める、妥協する、満足する。我ながら弱いもんです。でも誰かのためになら120%もあると言えます。その日々が人を成長させると思えて仕方なく、それがない人生は張り合いがないと思ってしまいます。別の誰かと一緒に生活することは楽ばかりではなく、確かに苦もあります。むしろ楽であるはずの場面は普段に紛れて楽と感じにくくなり、苦の方はバッチリ感じます。苦はうれしくはありませんが、それがないと成長しない。よりよくならない。しゃがまないと飛べない。そして、苦は苦でも向かう方向性が同じと思えれば辛いとは思わない。苦楽を共にとは、方向性を一にしてそこに向かうということで、友達や恋人とはできい人生の旅なんじゃないかな。そう思えば苦すら尊いものになる。せっかく稼いだ金は自分のためにこれもよく聞きます。特に男の子から。確かにそれもいい。わからんではない。小遣いでは自由にできるお金とは言い難い。でも、それじゃ自分ごときがそれなりに満足なだけしか稼げんぜ。俺らそんなもんじゃないでしょう?使い道も自己投資し続けるならいいけど、知る限り道楽になりがち。ちなみに親になったら何故か、自分の遊ぶ金より子どものための金の方が使ってて幸せなんです。当然妻もいるので妻に何かしてる方が幸せなんです。とはいえ、自分も消費するし投資したいので稼ぎたいんです。自分がいなくなった後のことも考えときたいんです。そうだとしたら、自分の道楽なんかのために稼ぐより仕事にも精が出るってもんです。このご時世、男だからとか女だからとか言うもんじゃないけど、そうやって必死こいてる方が妻にとっても子どもにとっても魅力的な夫でいられるんじゃないかな。女性だって頑張ってる方がかっこいい。これをさらにBIGにしたら社会貢献になるのかな。ともだちとの時間が無くなるこれは妻も言いますね。なんかごめん。ただ今は若いからまだいいけど、でも断言します。友達もいないよりはいた方が良いけど、利害のない気の合う相手も目的を共有し続けられることはなくて、学生のように毎日同じ空間にいるわけじゃない昔の友人と会って話すことなんて、だいたい同じような昔話と近況報告。喋ってすっきりも大事だけど、その重要度は年々下がります。夫婦はその家族が将来に渡って幸せであるという共通の目的を共有できる仲間であって、話題も問題もいくらでも降って湧くんだから、アンテナ張って、相手をよく見て、誰より何よりパートナーとよく喋れよと思うんです。子どもと学び、遊び、喋れよと思うんです。友だちとの時間もいいけれど、そんな暇ないだろよ。友だちとの時間もあっていい。誤解しないでほしい。でもこういった時間の方がずっと有意義だと私は思います。母から見た私おばあちゃんになった母から見た私は確かに中年ですが、いつまで経っても子どもです。当たり前ですが立場が子どもです。母にとって赤ちゃんであり少年だった私の、今ひとりの同じ大人としての一挙手一投足をとても幸せそうに見ていることを知っています。毎日当たり前に食べさせてもらった食事を、今度は私が作って出しただけで感動すらする始末です。そうだとするなら我が子を育てることの意味は、子どもが大人になるまでの話ではなく、生涯ずっと大きな意味を持ち続けると思えて仕方ないんです。だからこそ、不可能でないなら子どもは育てられたに越したことないと思うんです。とはいえ私の若いころは就職氷河期なんて言われていまして、将来を考えることなんてできなかったです。ろくに就職できないんですから。でも今ほど漠然とした不安もなかった、楽観視していたわけじゃなく、何も考えてなかったと思います。そしてやっぱり今楽しいことが大事でした。なので私も妻の友人とある意味同じ。彼女は考えてるだけ私よりマシです。それでも20年長く生きた分、彼女が20年後どう感じるようになるのか少し想像するとしたら、こんなことを伝えてみるのはどうかなあなんて。