ブログ始めてみた。
中学生以来・・・なつかしい。
あのときは、友だちのブログを見て、彼女らの生活とそのセンスを羨ましがっていたなあ。
中学時代にはそういうのがあった。
先日、大学の友だちと、互いに去年のスケジュール帳を見比べた。
互いに全く違う場所にいた時期だ。
たしかに同じ日、同じ時間に、それぞれが全く違う事に苦心し、必死になっていた。
見比べて、なんだか、とても尊くなった。
「尊いなあ!尊いなあ!」と、安っぽく繰り返していたが、
野暮に言いたくなるほど、そう思った。
映画に主人公は1人しかおらず、少なくともその小一時間のなかで、
世界の価値観は一定で、話の結末はひとつしかない。
たぶん、わたしは、そういう気分でほとんどの時間を、過ごしている。
その友だちが過ごしたという、去年のスケジュール帳に書かれた予定たちは、衝撃だった。
その予定が意味していることの情報量の厚みというか、奥行きというか、重量は、計り知れない。
夕焼けみてたら隕石降ってきた!くらいの衝撃。
きっと全部受け止めたら、脳がパンクして、死んでしまうだろう。
けどその衝撃が、嬉しかった。

わたしの世界は、つまるところ、退屈なのだ。
神秘に欠けて、平坦だ。
唯一面白いものは、そこに現れる「他人」だけだ。
だから、退屈を感じたら、さみしくなったら、映画を大量に観て、本を大量に読んで、
物語をむしゃむしゃと食べる。
薄っぺらい皮膚の内側に、中身を詰めるみたいにして、むしゃむしゃ食べる。
でも足りない。映画が終わったとき、世界はまた収縮する。
「他人」は、映画とちがって、わたしが彼を想像し続ける限り絶え間なく、
わたしの世界に奥行きをもたせてくれる。
わたしは現実の心と体で、現実の彼に触れることができて、彼の物語に介入することができる。
今まで埋もれていた感覚だった。たぶん。
また埋もれてるかも?すぐ埋もれる・・・。
自分を生きのばすために、想像にフタをするんだろう。生物だし。
自分の60年だって長いのに、ひとの60年まで受けとってしまったら、
パンクする!耐えられん!って言って、よう想像しないんだ。
けど、そうでなくても、きっと退屈で死んでしまうし、どっちかだ。
わたしは、想像力が小さい。気がする。
ぜんぜんわかってないと、思い知ることがよくある。
その点ブログはいい。
他人のブログを読むと、ちょっと、想像できるようになるので。
人を羨んでいたときには、「他人の人生」という概念もなかったんだ。
「尊重」とか「かけがえのない」とか、全然意味のわからない言葉だった。
最近になって1mmくらいは、気付けたような気がする・・・。
とかく、インターネットはそのように利用されればいいと思う。(そんな話だっけ?)
ブログはぼちぼち更新していく予定。
誰かがわたしを想像してくれたらいいなあ。と、願いをこめて、
それでは今日のところはアディオス。散漫な文章を読んでくれたひとありがとう・・・。
