私の判断では、現在まで支配的なキリスト論は、聖書を解釈して得た結論を展開したものではありません。聖書に現れたキリストを伝えようとする目的より、弁証的な要請が先に立ち、この要請によってはじめられたキリスト論的議論が足場となり、それがあたかもキリスト論の本質的なものとして、そのまま引き継がれてきたように思われます。

 

 

ヘレニズム世界で、どうしたら哲学的関心を持つ人々に納得できるようなキリスト像を提示することができるかということが第一の目的であったために、聖書と相当の距離が生まれました。そしてこれに関連して他宗教と哲学の世界、特にギリシャ・ローマ世界の中で、イエスがいかに優越し、また特殊であるかということを明らかにしなければならないという宣教的目的のために、イエスの生涯が非常に特殊であったにもかかわらず、キリスト論が当時のギリシャ・ローマで一般的だった神格化された救い主と何ら変わらない宗教的な英雄として叙述されざるを得なかったと考えます。