キリスト教が発展した場であった西欧社会で両性論がこれほど長い間持続されてきたのは、ギリシャ・ローマ体制、ないしは世界観長い間西欧世界を支配してきたからであり、いまやギリシア・ローマ的な体制や世界観が崩壊してしまったので、こういったキリスト論は立つべき場がありません。それなのに両性論をそのまま反復することは、キリスト論自体よりもその上に建てられた制度的教会を存続させるためです。ですから、こうしたキリスト論が何の説得力もないので教会は形だけ残り、歴史の現場からそっぽを向かれています。こうしたキリスト論を私たちが継承し反復しなければならない理由は全くないと考えます。
それなのにこうしたキリスト論を、全く風土が異なる第三世界、他の宗教が支配している世界、特に韓国のように仏教、儒教、道教のような諸宗教が深く根を下ろしている領域にそのまま引き入れたために、非常に異質的で訴える力のないものになってしまったと思います。ところが、驚いたことにこうしたキリスト論を基準に説教がなされ、独断的な神学に陥ってしまいました。
すでにキリストの神性と人性に言及しましたが、これは「キリストが誰であり何であるか」という問いに答えるためのものです。ですが、こうした問いは東洋にはないものと思います。神と人を完全に区別してしまい、神だというのも人だというのも難しくなってしまうディレンマの中で、結局「神人」という奇妙な結論を下してしまい、キリストの神性を主張することがキリストの神性を主張することがキリスト教的であるというのですが、東洋にはそんな表象はありません。