175 高橋諸随から曽祖父熊蔵への葉書 | 水戸は天下の魁

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幕末から明治維新へと大変な嵐が吹き荒れた水戸に生きた人々について、資料を少しずつ整理していきたいと思います。

高橋諸随については、今まで何度か触れたが、「茨城人物評伝:明治35年服部鉄石 著」に詳しく書かれている。「・・・贈正四位金子孫二郎の実子にして、同高橋多一郎の養子を以てす、故に尚官途の発達を見るべしと云ふ者吾人は未だ之を首肯する能わざるなり、夫れ君は維新の世に際会して警部より判事補となり、更に郡長より参事官に累進し壱千百円従五位勲六等に除す、その仕途よりすれば亡父亡養父に比して早く発達したる者なり、只時世勢を異にし、君の亡き父等は、一身を犠牲に供して以て国家の革命を企て、死後の成功を策す、其の回天の功を今日に録せらるゝに当てや身は靖国神社に合祀せられて以て児童走卒も金子高橋の名を識らざるものなし、夫れ然り亡父等は職は微官在りと雖も其の画策は国家の盛衰に関す、君は今職は亡父等に超ゆる所ありしと雖もその関する所は頗る微なり・・・」とある。彼は、金子孫次郎を実父に、高橋多一郎を養父に持つ人物であった。

熊蔵との関わりは、明治二十年五月に設立された郡立多賀高等小学校の訓導として奉職した際の多賀郡長であり、その長男高橋嘷が生徒として入学し、彼を担任したことに始まった。彼は、第四代多賀郡長として明治二十年七月に就任、明治二十二年三月に退任していた。「常陸多賀郡史(大正十二年発行)」

今回の史料は、高橋諸随からの葉書であるが、新任教師となった熊蔵と保護者の関係で、その後も長く交友が続いていたのだろう。

茨城県久慈郡

大子町

内田 熊蔵様

          東京市赤坂区葵町二

 大正3.7.26   高橋諸随


拝啓、炎暑之候、益御清勝之段

大賀此事に奉存候、扨て入暑早々

御見舞状を賜はり、拝謝仕候、御庇

蔭を以て、一同無異消光罷在候間

乍他事御放念願上候、愚息よりも、よろ

しく申上置候様申出に御座候

               頓首

 

 

 

 

 

 

この葉書が出された大正3年7月26日である。高齢になった高橋諸随、病気で臥していたのを知って、熊蔵は見舞状を送っていた。そのお礼の内容であることが分かる。

長男の高橋嘷とは、深い師弟関係が続いていたが、諸随も最後に、「愚息よりも、よろしく申上置候様申出に御座候」と、父親の思いを伝えている。なお、このあと諸随は亡くなったことが、嘷の知らせで分かったのであるが、彼の手紙は、あとで紹介したい。

なお、諸随は、高橋多一郎が桜田門外ノ変により自刃した後、彼が遺した多くの斉昭雪冤運動の文書を密かに保管、大正元年それらを公にして、「遠近橋」という題で刊行された。遠近(おちこち)橋とは、多一郎と板橋源介の二人が雪冤に身命を賭していたことを知った斉昭が、「をちこちに 二つの橋をかけ置きて あやうかるへき 世を渡るとは」という歌を与えたことから名付けられたものである。