水戸は天下の魁

水戸は天下の魁

幕末から明治維新へと大変な嵐が吹き荒れた水戸に生きた人々について、資料を少しずつ整理していきたいと思います。

勝手ながら、『水戸は天下の魁』タイトルを使わせていただき、幕末から明治維新へと大変な嵐が吹き荒れた水戸に生きた人々について、史料を少しずつ整理していきたいと思います。古文書については、まだまだ初心者ですが、関心のある方々のご意見やご指導をお待ちしています。宜しくお願い致します。
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  今回の史料は、幕末嘉永4亥(1851)年5月朔日の水戸中納言様(徳川慶篤公)御筆写であり、前号と同様に、小瀬弥一衛門所蔵の品である。ウハ(上)書きは、「御筆写、嘉永四亥五月朔日、拝見被仰付候、中納言様」と書かれている。

書状の宛先は、「家老備後守始江水(水戸藩)一同江」となっている。備後守とは、水戸藩附家老であった中山信守『文化4年(1807年)~安政4年(1857年)』である。常陸府中藩主松平頼説の次男であるが、文政11年(1828年)に、先代中山信情の養子となり、翌年家督を相続した。

「幕末史年表」を見ると、「嘉永三年九月、水戸藩附家老中山信守、名古屋藩附家老成瀬正住、同竹腰正富、和歌山藩附家老水野忠央、同安藤直裕、連署して三家附家老の格式を諸侯に準ぜんことを請う、幕府、これを却下す」とあり、附家老の家格向上を目論む信守を斉昭は警戒していたようである。書状の最後に、本書状の説明として、「右嘉永四亥五月朔日水戸御城ニ而諸子以上へ拝見被仰付候、内五月三日御郡宰麦作御廻村之節、拝見被仰付候」と書かれており、五月三日に、郡宰(郡奉行)の麦作の廻村の時に、この書状を見たことが記されている。

この時代、水戸藩の財政は困窮しており、「嘉永三年四月には、幕府、水戸藩主慶篤の府庫窮乏により、金一万両貸与す(綱要)、同年六月、江戸水戸藩執政より常平米二万俵の貸与の要求あり、斉昭、士臣の困難を思い、制規をまげて貸与す(水戸藩史料)」とある。さらに、「嘉永四年一月水戸藩、米価騰貴に依り、領民を賑恤す(綱要)とある。(賑恤とは、貧困者や被災者を援助するために、金品を施し与えることの意味)

このような水戸藩の現状の中で、斉昭公は、若き藩主慶篤公を支え、水戸藩之団結を訴えて、慶篤公に、このような書状を出させたのだろう。

本文は以下の通りである。

 

 

一家中文武忠孝を励

み非常之心掛可有之候、

但委細之儀ハ、弘道館

御碑文ニ而可奉承知候

 

一郷中農業出精

  凶年之手当嗜度事

 

一惣而一統御職分出精

  行跡を嗜み質素

  を守上下和睦国中

安穏致度事

花押

        

 

  中山信守は、文政111828)年の家督を相続し、従五位下備前守に叙任されたが、嘉永41851)年、備後守に遷任されていた。家老宛の書状にわざわざ、備後守始と記載したのも、附家老の中山信守の動きを警戒したからではないだろうか。

 また、弘道館御碑文とは、斉昭が第9 代水戸藩主となるや、士風の衰えを改めるべく、文武の奨励などの改革に着手、門閥派の抵抗を排除し、藤田東湖や戸田忠敞を要職し据えて、起草した内容を幕府の儒者佐藤一斎の意見も聞いて、斉昭が裁定した文章であり、水戸学の神髄が示されている。現在も、弘道館の八卦堂の中に納められているものである。

 家老に命じ、全ての藩士は質素を守り、上下(上級武士の下級武士も)、和睦して、国中安穏致すべき事と諭しているのである。大きく書かれた花押にも、斉昭の強い気持ちが表されて気がする。