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子供の頃からずっとずっと探していた曲。ほぼ40年振りにこの曲に再会できました。
洋楽を聴き始めた小学校高学年の頃、小学生なりに心が動く曲をラジオの洋楽番組で片っ端からエアチェック(泣)して独りで聴いてるのが大好きでした。当然英語力なんかないから、詠み人知らず、タイトル知らずの曲ばかりで…でもまだ埃まみれのカセット、捨てずに持ってきているんですよ。
そして月日は流れShazamという有難いアプリがスマホ上にお目見えしてから、だいぶその時の曲の曲名と演奏者名は8割がた解明されたんですが…もうここまで書いてて頭オカシイですよね。子供の頃に好きになった曲をほぼ人生の大部分を通じて探し求めてんだから。
で、この曲です。80年代の半ば辺り、日曜日の朝10時くらいの洋楽番組で聴いてこの曲を録音して以来、そこからずっと巡り合う事がありませんでした。そんな感動や悩みをこんな田舎の大人や同級生が理解してくれるわけもなく独り途方に暮れ、何の手立てを講じることもできず更にに月日は流れ、やがてShazamが出現しても今度は膨大なカセットテープの山の中からこの曲を探し当てなくてはならず、レトロなラジカセ機器を捨てることもできず、ずっと心に引っかかっていました。大げさかもしれないけど「このままタイトル知らずに死ぬのかなー私」って思い始めてました。
ところが一転、昨晩おそく頭の中にこの曲が突然鳴り始めたんです!(もうここからは読み流していただいて結構です有難うございます)私は昔から頭の中に好きな曲をほぼ正確に再生するのが得意なんですが、子供の頃に聴いた曲は当然英語力なんかなかったので、大抵『子供の頃に聴いたまま』なんです。つまり英語としてインプットされずにただ抽象的な『音声』として脳内再生されてきたのです。
しかし昨晩は違いました。頭の中でその抽象的な音声が具体的な英語の単語の一つ一つにスッキリ一致して、やがてその集合体となったセンテンスが突然意味を持って聞こえて来て「そうか、こんなことを歌ってたのか!」ってやっと意味のある文章として認識できたのです(←これ、すべて頭の中で起こったことです)。
で、これは!と思って最初に聞こえてきたセンテンスをググってみたら、それがずばりこの曲のタイトルだった!秒殺でした。40年が秒殺でした。因みに昨晩は”Turn out the nightlight”ってちゃんと聞こえてきたんです。従来の子供耳では「とぅのったナィッラィッ♪」でした。
まあ、そういう訳で探し当てるのにほぼ40年かかったんですが、その割には「大した事(歌詞の内容ね)歌ってねぇな💦」っていうのがオチですかね(笑)
そのグループ名は『Tavares タヴァレス』、曲名は『Turn Out The Nightlight(夜の明かりを消して)』でした。子供の頃に好きになった曲、まだ好きで嬉しかったよ。それにしてもおませさんだったねー私。
私は英語やポルトガル語もろくに話すことができないのに、それでもこの職業が成り立っているのは(このような子供の頃の曲の聴き方の名残で)まず全ての曲を音声として認識しているからなんです。具体的な意味や文法的な単語の並びはその後から付いてきている感覚です(逆に楽譜や歌詞カードから入った曲は忘れやすい)。小学生が学校や塾で論語を唱えさせられるのと似てるかも。生徒さんにも是非、歌詞カードや楽譜を見る前にこの方法を試してもらいたいですが…なかなかねー。
去年の今頃は…なんてつい頭をよぎる今日この頃、ですね。
まさか全世界単位でほぼ同時に平等に影響を及ぼして世界を一変させてしまう凄いものがあっただなんて、去年の今頃は想像だにできなかったですよね。それがまさかの人物でもなく文明の利器でもなく『ウイルス』だったなんて。戦争を経験したお年寄りだって「こんなの初めてだ!」って驚いてるもの。
この一年で、ちょっと悟ったことがあります。
人間って基本『生きて、死んでいく』もので、それ以外の努力とか、資質とか、経験とか、教養とか、生まれ育ちとか、出会いとか、運とか、不運とか、ご飯がおいしかったとか、試合に負けて悔しいとか、体裁整えなきゃとか、駅近に土地を持ってるとか、年収3,000万稼ぐとか、モテるとかモテないとか、意識高いとか低いとか、そういうものって結局その人の人生の『オマケ』の部分やな、って。
そういうものはあくまでもその時の時代の価値感だったり、自己の嗜好とか裁量や才覚の範囲でするものだったり、自分に起きた『出来事』だったりで、同じように『生きて、死んでいく』他人の動向を見て自分に仕向けてみようとしてもしょうがないことなんですよね。
コロナウィルス(の情報)に必要以上におびえているのは今の時期のその最たるもので。
つまり、私達は『生きる』って言う行為に、必要以上に付加価値を付け過ぎちゃったんじゃないかって。
『オンリーワンの存在になる』とか『なりたい自分になる』っていう自己実現を決して否定はしないし、本人の資質で頑張って叶えて是非幸せになってくれればいいと思うけど、その価値観、いつどこで刷り込まれたんですか?って一瞬考えてしまう。
じゃあ『私達って周りに生かされているんですね、有難うございます』って周りにいつも感謝しながら生きるとか、そういう意味じゃなくて。なんか、昆虫や野生動物や植物みたいに『自分達の美しさを自ら称賛することなく、命の短さを嘆くことなく、だだそこで精いっぱいありのまま生きている』のに、惹かれるようになりました。
生前、努力してもしなくても、意識高かろうが低かろうが、善い行いをしようがしまいが、多分死後の世界では魂は平等なんだろうな。魂は、ね。
人生って、ある一定期間を過ぎると消化試合かもしれないですね。いや決して後ろ向きとか投げやりな意味でなく。これくらいの気持ちで生きてたら丁度良いのかも、って思うようになりました。でも、ここはどうしてもって時は…神仏にでもすがろうかな(笑)
例えば、「宝くじ当たりますように~!」とか目先の欲望丸出しで真剣にお参りしてる自分は、きっとバカで人間臭くて、それでも天から見たらちっぽけで可愛い存在だろうな、って。そんな可愛い人間として死んでいきたく(生きていきたく)なりました。
昭和の懐かしい白黒映画見ると、そんな登場人物がいっぱい!そうそう、こういう人達に憧れるの今は!
そういえば、遺跡とか地層の発掘現場でたまに見つかる、大昔に不慮の事故とかで生き埋めになったか転落したかで人骨がそのまま化石になって見つかっちゃったような、ちょいオマヌケな原始時代の名もなき人も、なぜか愛おしく感じるなぁ〜。
あれが足りない、こうならなきゃ、って、何かの価値にしがみつくように生きるんじゃなくて、もっと気持ち楽に生きたいなぁ、って思っていたらこんな事態になって、それがきっかけでいろんなこと考えました。
だから、やみくもに『がんばろう!』とかいう言葉、私、もういいわ。
ただひたすら生きて定命を全うする、以上!