まだあげ初めし前髪の (初・そ)

林檎のもとに見えしとき

前にさしたる花櫛の

花ある君と思ひけり

(初恋)

明治20年代後半に「文学界」で活躍していた島崎藤村の詩が、「若菜集」という単行本で出版されると、(明治30年)晶子は夢中で買い求め、熱心に愛読した。

 

大阪、堺の、羊羹・饅頭などを製造、販売する駿河屋の鳳宗七(ほう・そうしち)の娘として生まれた晶子の当時の名は、鳳しょうであった。

このころは、幼少のころから変わった姓のおかげで、近所の子供たちにからかわれていた。鳳という姓をのちに(おおとり)と称して同人誌に投稿したりするようになるのだが、それはまだ先のことである。

 

先妻との間に、輝子、花子という異母姉がおり、実母つねと父との間には、しょうの兄秀太朗がいて、のちに東京帝国大学にすすみ、教授にまでなる。

 

鳳家は、代々商家であったが、いくら調べても宗七が2代続き、その先の祖父まで分かるがその先が分からない。士農工商制度が確立されていた江戸時代にあって、身分制度があった当時に、一番最下層の町民に姓があったとは思えない。落語の八っつあん、熊さんでおなじみの、名しかない筈である。のちに、「君死にたもうことなかれ」で「・・・旧家をほこるあるじにて・・・」と詠まれるが、姓のない身分で、まして人別帳に記載される身分では先祖の存在は自分たちで記録に残す他なかったのであろう。旧家はただの古い家の出で、名家とはほど遠い。

 

 

農家であれば、庄屋などになれば苗字帯刀が許され、郷士として武士にもなれた。

別例として、武士になる株も売られていたから、それを買うか武家の養子にでもなれば別である。

幕末の勝海舟の父、勝小吉の「夢粋独言(むすいどくげん)」に詳しく載っている。小吉については別の項目で書きます。

 

で、輝子、花子は嫁に行き、母つやは病気がちであり、兄秀太郎は東京帝大に進学して、しよう(鳳志よう)は父宗七に期待されて、「ゆくゆくは婿を迎えて、この駿河屋を継いでほしい」と思うほど聡明であった。

店の帳場に座り、テキパキと仕事をこなし、帳面付けなど算盤なども得意であった。

 

明治二十七年(1894)堺女学校の専攻科を卒業してまもなくのことである。晶子17歳。

 

 

 

 

明治45年ころの晶子。パリでのものか?明治44年に夫鉄幹(この時には本名の与謝野寛 ひろしにもどしていた)はヨーロッパに出発。晶子はウラジオストックからシベリア鉄道に乗り、ロンドン・オランダ・ベルギー・ドイツなど船旅・鉄道旅をする。