地位も財産もある独身中年男性。
彼が理想とする女性は「浮気をしない、従順な女性」。
どういう女性なら浮気をしないか、考えた結果が「頭の悪い、知恵の働かない女性」。
賢い女性は悪知恵を働かせて夫を裏切る可能性がある、というわけです。
親のない4歳の少女を引き取り、その子を10年間、修道院に入れます。「できるだけお馬鹿さんにするように」と指示をして。
そして年頃になった彼女を迎え入れて、自分の妻にしようというのが主人公。
この演劇が披露された時(1662年当時)、パリでは確かに不倫まがいの交際が流行(?)していたようです。
それを面白おかしく展開して発表すると、大盛況だったとか。
モリエールの劇作を読むと、志村けんや懐かしのドリフターズのコントの源流を見る思いがします。
志村けんが笑いの対象にした人物を思い出すと、老人、亭主、サラリーマン、入院患者・・・つまりどこでも見かけそうな人物設定ですね。
殿様は別にして、多くの人の笑いを誘うには「特殊な人物」ではダメなわけです。
モリエールの演劇は大衆を笑わせることをねらっていますから、『女房学校』のこの主人公は、けして特殊な人物ではないのです。
さあこの人物設定、当時のパリで賛否両論となります。
一般庶民は大笑いして喜び、貴族階級の間では大ブーイングだったそうです。
この「大ブーイング」の種類は3つあります。
ひとつは「これは女性蔑視だ」というもの。「女性は頭が悪い方がいい」とは何事だ、というわけです。
でも、よく考えてみてください。志村けんが女性蔑視する中年男性を演じたところで、怒る人はいるでしょうか?
いいえ。人はただ、「志村けんが『偏屈な人間』を演じている」としか思わないはずです。
ではなぜ『女房学校』にブーイングする向きがあったのか。大ブーイングの2つめの種類。
それは、「上流階級への逆差別ではないか」というものです。
この劇作のテーマを「地位と財産のある人間=滑稽である」と解釈した貴族階級が腹を立てたようなのです。
劇場の、安い見物席で庶民たちが大ウケしているのを、上流階級たちは「下品だ」と苦々しく感じたのです。
なぜ僕が、1662年当時のパリの人々の様子を知っていると思いますか?
本の解説を読んだと思いますか?いいえ。僕は解説はあまり読みません。
この本には次の年に発表された作品が載っています。
その名も『女房学校是非』といいます。
その劇作を読むと、いかに前作『女房学校』が賛否を浴びたか、そしてどんな批判があったかが克明に描かれているのです。
『女房学校』に対するブーイングに、モリエールが登場人物のセリフを利用して、反論するのです。
これも喜劇として成り立っています。
さあ、「大ブーイング」の3つめ。
それはね、モリエール作品が賛否を浴びている、そのことに嫉妬する人々の「ねたみ」です。
これが面白いですねー
賛否両論の『女房学校』がどの程度のものなのか、さらに客が押し寄せるのです。
他の同業の作家や劇団は、モリエール作品をここきおろすわけです。
想像してみてください。売れないコメディアンがメディアで、志村けんの批判や悪口を言ったとします。
それ自体が滑稽になりませんか?
『ヴェルサイユ即興』という作品も掲載されていて、そのことが描かれています。
「ねたむ人々」をまた笑いの対象にしてしまうのです。
くしくも『女房学校』という問題作のおかげで、モリエールについて理解が深まるのです。
ちなみにモリエールの劇団がその後成長し、現在「国立コメディ・フランセーズ」として不動の地位を獲得しています。
DVDもいくつか手に入ります
ギリシア悲劇は「神と特別な人間」を描き、
シェイクスピアは「特別な人間」を描き、
モリエールは「誰の心にもある人間」を描いたのだ、
そんな発見ができる作品です。
「あの人を、自分の思った通りの人にしたい」という要素は、誰の心にも1度は現れたはず。
ちなみに、免疫力をつけるための治療の一環として、アメリカのある病院では、集会所のようなスペースにテレビをおき、ずっとコメディのビデオを流しているそうです。
愉快な笑いは「NK(ナチュラルキラー)細胞」を育てるそうです。
喜劇は人類の知恵なのかもしれません。
